預流道果になった人の残っている苦(dukkha)はあとどれくらいあるのか?[次第説法13 四聖諦⑤]
↑この続きです。
一旦、四聖諦を現観して、洞察して、四聖諦を了解している人に、あと残っている苦はどれくらいなのか?というパーリ語経典のご紹介です。
相応部経典 第二 現観相応 P497 〜から引用 片山一良訳 大蔵出版
Ⅰ 爪先経 (Nakhasikhā-sutta)
(74)このように私は聞いた―
あるとき、世尊は、サーヴァッティに近いジェータ林のアナータビンディカ僧院に住んでおられた。
そのとき、世尊は、爪先に少しの塵(ちり)を載せ、比丘たちに話しかけられた。
「比丘たちよ、そのことをどう思いますか。 私が爪先に載せているこの少しの塵(ちり)と、
この大地とでは、どちらが多いか、ということです」と。
「尊師よ、これが、すなわちこの大地がより多く、世尊が爪先に載せておられる少しの塵はほんのわずかです。
大地に比べれば、世尊が爪先に載せておられる少しの塵は、その百分の一にも及ばず、
千分の一にも及ばず、 十万分の一にも及びません」と。
「比丘たちよ、ちょうどそのように、聖なる弟子にして、見をそなえ、すでに現観している人の、滅尽し、終息している苦がより多く、残っている苦はほんのわずかです。
先に滅尽し、終息している苦の集まりに、すなわち極七返生の状態に比べれば、その百分の一にも及ばず、千分の一にも及ばず、十万分の一にも及びません。
比丘たちよ、このように、法の現観✳(注)は大きな利のあるものです。
このように法眼の獲得✳(注)は大きな利のあるものです」
✳(伝統的註釈)法の現観と法眼の獲得とは預流者の徳である。
↓別な表現のお経もあります。
これらのお経などを検索して新たに発見して読みますと、釈尊の「意向」としまして、
在家一般人、見習い修行僧らはまず四聖諦をよく理解して、まず預流道果に到達する事が目指すべき事であるとの印象を受けます。
南伝大蔵経 相応部経典(大篇)
第十二諦相応 第六 現観品P395〜
(僕の大まかな概要訳)
そのとき、世尊は、爪先に少しの塵(ちり)を載せ、比丘たちに話しかけられた。
「比丘たちよ、そのことをどう思いますか。
私が爪先に載せているこの少しの塵(ちり)と、
この大地とでは、どちらが多いか、ということです」と。
「尊師よ、この大地がより多く、世尊が爪先に載せておられる少しの塵はほんのわずかです。
大地に比べれば、世尊が爪先に載せておられる少しの塵は、数とならず譬(たと)えにも一分にもなりません」と。
比丘たちよ、このように聖なる弟子にして、見をそなえ、すでに現観している人の、滅尽し、終息している苦がより多く、
残っている苦は前の已に滅尽している苦に比べれば数にも、譬えにもならないし、一分にもなりません。
彼は
これが苦であると如実に了知し、
これが苦の原因であると如実に了知し
これが苦が残りなく無くなる事だと如実に了知し、
これが苦が残りなく無くなる方法だと如実に了知する。
これ故に、比丘達よ、
これが苦であると勤め励むべきで、
これが苦の原因であると勤め励むべきで、
これが苦が残りなく無くなる事だと勤め励むべきで、
これが苦が残りなく無くなる方法だと勤め励むべきである。
原文全訳
[五一]第一 爪頂
時に、世尊は少許の塵を爪頂に載せて諸比丘に告げたまへり。
諸比丘よ汝等の意に於て云何、我爪頂に載せたこの少許の塵と大地と何れが多きや?
大徳よ、大地は多く、世の爪頂に載せたまへる少許の塵は少し、
大地に於て世尊の爪頂に載せたまへる少許の塵は算数とならず譬類(ヒルイ・たとえ)
とならず一分とならず。
諸比丘よ、是 の如く聖弟子、見具足人にして已に現観せば、已に滅尽せる苦は多く、
「残れるは少く前の已に滅尽せる苦薀(くうん)に於て算数とならず譬(たとえ)類とならず一分とならず。此、極七返なり、」
彼は
此、苦なりと如実に了知し、
此、苦集なりと如実に了知し、
此、苦滅なりと如実に了知し、
此、順苦滅道なりと如実に了知す。
是故に、諸比丘よ、
此、苦なりとて勉励すべし、
此、苦集なりとて勉励すべし、
此、苦滅なりとて勉励すべし
此、順苦滅道なりとて勉励すべし。