インド最初期仏教への誘い

現存するパーリ語仏教経典からの引用による仏教紹介。

ゴータマ・ブッダが説く「感受(感覚)の楽味とは何か?」四聖諦を理解するために。「苦Dukkhaドゥッカ」の意味とは?大苦蘊経 PART14[次第説法47 感受(感覚の楽味])の楽味]


前回の続きです。


パーリ語仏典 中部経典第13 大苦蘊経(mahaa dukkha khanda sutta) 片山一良訳 大蔵出版 P246~から引用


感受の楽味
「つぎに、比丘たちよ、もろもろの感受の楽味とは何か。

比丘たちよ、ここに、比丘は、もろもろの欲を確かに離れ、もろもろの不善の法を離れ、大まかな考察のある、細かな考察のある、遠離から生じた喜びと楽のある、
第一の禅に達して住みます。


比丘たちよ、比丘は、もろもろの欲を確かに離れ、もろもろの不善の法を離れ、大まかな考察のある、細かな考察のある、 遠離から生じた喜びと楽のある、第一の禅(pat.hama-jhāna. )に達して住むとき、
自己を害するために〈attabyābādhāya. 自己の苦のために(怒心、瞋心のために*(水野弘元辞書参照)〉考えることがなく、


他を害するために考えることがなく、
両者を害するために考えることもありません。
そのときは、不害の感受〈苦のない〉abyābajjha.のみを感じます。
比丘たちよ、
私は、最上の不害をもろもろの感受の楽味と言います。


さらにまた、比丘たちよ、比丘は、大まかな考察・細かな考察が消え、内心が清浄の、心の統一された、大まかな考察・細かな考察のない、心の安定より生じた喜びと楽のある第二の禅に達して住みます。~


さらにまた、比丘たちよ、比丘は、喜びを離れていることから、平静となり、念と正知をそなえて住み、楽を身体で感じ、聖者たちが『平静にして、念があり、楽に住む』と語る、第三の禅に達して住みます。~


さらにまた、比丘たちよ、比丘は、楽を捨て、苦を捨て、以前にすでに喜びと憂いが消滅していることから、苦もなく、楽もない、平静による念の清浄のある第四弾に達して住みます。


比丘たちよ、比丘は、楽を捨て、苦を捨て、以前にすでに喜びと憂いが消滅していることから、苦もなく、楽もない、平静による念の清浄のある、第四の禅に達して住むとき、
自己を害するために考えることがなく、
他を害するために考えることがなく、
両者を害するために考えることもありません。
そのときは、ただ不害の感受のみを感じます。
比丘たちよ、私は、最上の不害をもろもろの感受の楽味と言います」

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このことは、完全に、欲(眼、耳、鼻、舌、身体)からの情報をシャットアウトした後で、もちろん仏教で言うところの不善の法(殺生、偸盗、邪淫行、悪口、嘘、離間語、無駄話等)を離れた先に起こる心の集中の事(座禅、歩行禅も含む)だと思われますが、


それが形成された暁(あかつき)には自他とも「何か自分、他人を害する」とかいう発想など微塵も起きない、苦、欲求不満などは全く感じない想像を絶する至福感のようなものだと思われます。


確かにその状態は、感受(感覚)を受ける、いわゆる感じるものの中で、最上のものだと思われます。
第一禅から第4禅までの心の集中は、他の経典でも「多かろう少なかろうと、金銀、財宝、家族等すべて捨てて出家した比丘のたしなみとして身に付け易いもの、当然身に付けるもの」として多くの記述があります。


確かに感覚、感受の楽味としまして、禅定なるものが一番だ、眼、耳、鼻、舌、身体から受ける情報よりも、それを完全に断った初禅の方が上という記述もあります。
(中部経典59 多受経、中部経典14 小苦蘊(うん)経 参照)


★次回はこの続き、その感受(感覚)の危難(欠点)を述べてみたいと思います。

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