インド最初期仏教への誘い

現存するパーリ語仏教経典からの引用による仏教紹介。

ゴータマ・ブッダが説く「感受(感覚)の出離とは何か?」四聖諦を理解するために。「苦Dukkhaドゥッカ」の意味とは?大苦蘊経 PART16[次第説法49 感受(感覚)の出離]


⇑前回の続きです。今回は感受(感覚)の出離nissaran.aについてです。


パーリ語仏典 中部経典第13 大苦蘊経(mahaa dukkha khanda sutta) 片山一良訳 大蔵出版 P248~から引用


感受の出離


つぎに、比丘たちよ、もろもろの感受の出離とは何か。
比丘たちよ、


もろもろの感受に対する欲貪の調伏
⓶ 欲貪の捨断


これがもろもろの感受の出離です。


比丘たちよ、いかなる沙門であれ、バラモンであれ、このようにもろもろの感受の楽味を楽味として、 危難を危難として、出離を出離として如実に知らない限り、


かれらは自らもろもろの感受を知悉(ちしつ)するであろう〉とか、〈他をそのとおりに教誡するであろう〉とか、〈実践のとおりにもろもろの感受を知悉するであろうという〉、この道理は知られません。


しかし、比丘たちよ、いかなる沙門であれ、バラモンであれ、このようにもろもろの感受の楽味を楽味として、危難を危難として、出離を出離として如実に知るならば、
かれらは自らもろもろの感受を知悉するであろう〉とか、〈他をそのとおりに教誡するであろう〉とか、〈実践のとおりにもろもろの感受を知悉するであろう〉という、この道理が知られます」と。


このように世尊は言われた。
かれら比丘は喜び、世尊が説かれたことに歓喜した、と。

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ゴータマ・ブッダが説く「欲の出離、解放とは何か?」四聖諦を理解するために。「苦Dukkhaドゥッカ」の意味とは?大苦蘊経 PART9[次第説法42 欲の出離、解放] - インド最初期仏教への誘い


ゴータマ・ブッダが説く「色(物質、容姿)の出離とは何か?」四聖諦を理解するために。「苦Dukkhaドゥッカ」の意味とは?大苦蘊経 PART13[次第説法46 色(物質、容姿)の出離] - インド最初期仏教への誘い



⇑この今まで述べてきました結論と同様になるようです。


感受、感覚も変化するもの、無常であるもの、最終的に壊れるものであるが分かりましたら、
結論、その対策としまして
精神的に気持ちとして「それを捨てるしかない」という決断のようです。


結局このことが理解できましたら、四聖諦の理解につながると思われます。


いわゆるその人にとりまして「良いもの」は必ず例外なく「変化」してしまうわけです。=無常


良いものが変化してしまうのだから、嫌な気持ちになるわけですね。=苦


当然それには実体がない、固定したものがない事になると思われます。=無我


以上で
パーリ語仏典 中部経典第13 大苦蘊経(mahaa dukkha khanda sutta) 片山一良訳 大蔵出版からの引用は終わります。


仏教で言うところの、 欲、色、感受、それぞれのdukkhaドゥッカの定義、長所、欠点、その精神的克服法が述べられていると思います。



次回は感受の楽味の延長線上にある、心の集中力を修めた先にある禅定についてのゴータマ・ブッダご自身の体験談をご紹介してみたいと思います。

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