ゴータマ・ブッダが説く「色(物質、容姿)の出離とは何か?」四聖諦を理解するために。「苦Dukkhaドゥッカ」の意味とは?大苦蘊経 PART13[次第説法46 色(物質、容姿)の出離]
↑前回の続きです。
今までは色(物質、容姿)の危難、欠点について述べてきました。
今回からその対策、色(物質、容姿)の出離(解放)nissaranaを見ていきたいと思います.。
⇩まず人間にとりまして、色(物質、容姿)の楽味、楽しみは良いとしまして、
ゴータマ・ブッダが説く「色(物質、容姿)の楽味とは何か?」四聖諦を理解するために。「苦Dukkhaドゥッカ」の意味とは?大苦蘊経 PART10[次第説法43 色(物質、容姿)の楽味] - インド最初期仏教への誘い
⇩色の危難
それでは、今まで述べてきました、色(物質、容姿)の危難、欠点を克服するのには一体どうすればいいのでしょうか?
パーリ語仏典 中部経典第13 大苦蘊経(mahaa dukkha khanda sutta) 片山一良訳 大蔵出版 P245~から引用
色の出離
「つぎに、比丘たちよ、もろもろの色の出離(解放)nissaranaとは何か。
比丘たちよ、
①もろもろの色に対する欲貪の調伏(ちょうぶく)(chanda raaga vinayo)、
②欲貪の捨断(chanda raaga pahaanam)、
これがもろもろの色の出離です。
比丘たちよ、いかなる沙門であれ、バラモンであれ、このようにもろもろの色の楽味を楽味として、危難を危難として、出離を出離として、如実に知らない限り、〈かれらは自らもろもろの色を知るであろう〉とか、〈他をそのとおりに教誠するであろう〉とか、〈実践のとおりにもろもろの色を知悉(ちしつ)するであろう〉という、この道理は知られません。
しかし、比丘たちよ、いかなる沙門であれ、バラモンであれ、このようにもろもろの色の楽味を楽味として、 危難を危難として、出離を出離として、如実に知るならば、かれらは自らもろもろの色を知悉(ちしつ)するであろう〉とか、〈他をそのとおりに教滅するであろう〉とか、〈実践のとおりにもろもろの色を知悉(ちしつ)するであろうという、この道理が知られます」
⇑欲の出離、解放のところで、述べました通り、色(物質、容姿)のリスクには、⇩
ゴータマ・ブッダが説く「色(物質、容姿)の危難とは何か?①」四聖諦を理解するために。「苦Dukkhaドゥッカ」の意味とは?大苦蘊経 PART11[次第説法44 色(物質、容姿)の危難] - インド最初期仏教への誘い
ゴータマ・ブッダが説く「色(物質、容姿)の危難とは何か?②」四聖諦を理解するために。「苦Dukkhaドゥッカ」の意味とは?大苦蘊経 PART12[次第説法45 色(物質、容姿)の危難] - インド最初期仏教への誘い
があり、
つまり身体の容姿、美しさの劣化、老化、介護、崩壊、死体白骨化による悲しみ、苦しみを避けるためには、身体に対する欲、貪り、執着を、徹底的に精神的に捨てるしかないという結論のようです。
このことを、四聖諦で当てはめて考えるならば、↓
在世時のブッダ釈尊その人が一般在家に直接ご自分の教え(仏教)を説いた代表的な方法。次第説法2[次第説法 概要 その②] - インド最初期仏教への誘い
もろもろの仏が自ら称賛する法の教えをすなわち、
苦・集・滅・道 [苦 ・苦の生起・苦の滅尽・苦の滅尽にいたる行道という四聖諦]を説き示された。
すると、ちょうど染みのない清浄な布が完全に染料を受けとるように、
ポッカラサーティ・パラモンには、即座に、
「生じる性質のものはすべて滅する性質のものである」という、
塵を離れ垢を離れた法の眼✽1(預流道)が生じた。
(四聖諦の原文と日本語訳は
→パーリ語 長部経典 大念処経 四聖諦の部 参照。
あるいは光明寺経蔵 https://komyojikyozo.web.fc2.com/index.html 長部→大篇→22 大念処経→(6)法随観 四諦の部)
①第一の真理、苦聖諦。⇩
誰でも初めは喜んでいても、
一切の色(物質、肉体、身体、容姿)は、例外なく、劣化、腐敗、白骨化し、崩壊、壊れる。物質、容姿の美しさの永続化、永遠性はあり得ず、不安定な存在である。
それに対し、人間の感情として、実に憤懣遣る方無い(ふんまんやるかたない)感情、不満足な、残念な気持ちで、最後は例外なく終わる。
②その一切の色(物質、肉体、身体、容姿)の美しさ、存在に対して欲を持つ、執着する、期待を持つ、喉の渇きの癒しを求める如く、渇愛(kaama tanhaa)を持つならば、その一切の色(物質、肉体、身体、容姿)の美しさ、存在は、やがて遅かれ早かれ、変化し最後には劣化、崩壊してしまうので、
その時、自分の心に必ず、例外なく、苦しみ、悲しみが生まれることになる。
⇑苦が生まれる原因が生起するという 第二の聖諦、苦集聖諦。
③必ず、劣化、崩壊して無くなる運命になる一切の色(物質、肉体、身体、容姿)の美しさ、存在に対して初めから、欲を持たず、執着せず、期待をせず、喉の渇きの癒しを求める如く、渇愛(kaama tanhaa)を持たないならば、
その生命にとって悲しみ、苦しみが起きようもなく、問題が起きようもなくなる。
⇑苦が生まれる原因が無くなるという 第三の聖諦、苦滅聖諦。
④その苦が生まれる原因が無くなるという 第三の聖諦、苦滅聖諦を実現させる為の方法論、手段が八正道。
⇑第四の聖諦、苦滅道聖諦。
① 正見 (参考原文 大念処経 四聖諦の部 大蔵出版 片山一良 訳)
【では比丘たちよ、正見(sammaa ditthi)とは何か。
比丘たちよ、
苦についての智、
苦の生起についての智、
苦の滅尽についての智、
苦の滅尽に至る道ついての智があります。
比丘たちよ、これが正見(sammaa ditthi)と言われます。】
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つまり生命にとって今まで全く聞いたことがない四聖諦という話を理解する。
生命、自分にとって果たして何が苦になるのか?という事について、まず理解することが必要。
そもそも苦の定義と、苦が生まれる原因ということが自分の頭で整理され、分っていなければ、それを解決しようという発想や手段、八正道、特に【正念 正定】に意味がない。
正見がないと八正道、特に【正念 正定】いわゆる瞑想なるものをやっても、途中で、何のために何の目的で瞑想などをやっているのか?自分で分からなくなると思われます。
苦が生まれるメカニズムのサーリプッタ尊者の簡潔な説法はこちら⇩
【超重要】サーリプッタ尊者が説く「初めての方のための仏教の学び方」これだけ理解すればまず仏教は十分。PART2 本編[次第説法31 欲の欠点、危難⑥ 離欲の利点、功徳④] - インド最初期仏教への誘い
苦が生まれるメカニズムのゴータマ・ブッダの簡潔な説法はこちら⇩
【決定版】ブッダが説く、悩み、苦しみの根本的原因とその解決法とは?PART 1[次第説法28 欲の欠点、危難③ 離欲の利点、功徳①] - インド最初期仏教への誘い
② 正思惟(しょうしゆい)
まず思考レベルで一定の「欲」を離れなければ、欲に伴う、付随して付いてくる煩わしさから逃れられないし、年がら年中、眼耳鼻舌身意という感覚器官を刺激することを考えているならば、そもそも仏教など考える時間も無くなってしまう。
年がら年中、怒ってばかりいる、敵対心を燃やし続けているならば、自分の苦しみを解決する余裕など失くなってしまうと思われます。
まず思考レベルで「欲」「怒り」「敵がい心」から一時的に離れてみる試みが必要だと思われます。
③正語
日常的に、嘘をつきまくっている、他の人々を仲たがいさせたり、人の悪口、噂話が趣味になっている等、そういう性格があるならば、それを控えてみるという試みは、自分の苦の根本的解決には確かに必要だと思われます。
④正業 正しい行い
何でも自分に気に食わない存在があるならば、殺してしまう、他人に見つからないならば盗んだり、不倫したり、邪な性交渉を当然だと考えている、そんな性格は控えないと四聖諦の理解、究極の苦しみの超越などはそもそも無理な話だと思われます。
⑤正命 正しい職業
詐欺まがいの商売をしない。
⑥正精進
仏教的に正しいと思われることに努力する。一時的に俗世間の思考、金儲け主義から離れてみる、社会的地位、学歴、名誉等を求めるのを一時的に止める。頭でそういう事を考えていては仏教教義、四聖諦、苦とは何か?など考える暇が無くなる。
⑦正念
身体、感覚、心、様々な事象を、自分の身体と心を道具として使って、物事の始まり、中間、終わりを観察してみる。
⑧正定
自分の感覚器官、眼耳鼻舌身から得る情報、刺激よりもはるかに優れている刺激「第一禅定~」 みたいなものがこの世の中にあることを一度何とかかんとかして体験してみる。そうすることで
自分の感覚器官、眼耳鼻舌身から得る情報、刺激を初めて捨ててみようという気が起こる。
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いわゆる史上最速で悟ったと言われるバーヒヤに語ったと言われるゴータマ・ブッダの説法「バーヒヤよ、見たものは見たままにして置きなさい。聞いたものは聞いたままにして置きなさい。~云々」に繋がってくると思われます。
つまりゴータマ・ブッダの臨終の際の最後の言葉(遺言)が思い出されるわけです。
パーリ経典 長部3 大般涅槃経 P313 ~ 片山一良訳 大蔵出版
そこで、世尊は比丘たちに告げて言われた。
「さあ、比丘たちよ、今やそなたたちに告げます。
”いかなるものも移ろい行きます。(諸行は壊れる性質のものです。)vaya-dhammā sankhārā
怠ることなく努めなさい appamādena sampādetha」と。”」
これが、如来の最後の言葉である。
ゆえにすべての心身の苦しみから逃れるためには、四聖諦の中にある、八正道を実践するしかないという結論に至るという事になると思われます。
次回は感覚、感受の楽味についてパーリ語仏典 中部経典第13 大苦蘊経(mahaa dukkha khanda sutta) 片山一良訳 大蔵出版 P246~からその続きを引用しまして述べてみたいと思います。