インド最初期仏教への誘い

現存するパーリ語仏教経典からの引用による仏教紹介。

ゴータマ・ブッダ曰く「四聖諦を理解する事とは、沙門バラモン中の沙門バラモンである。」〜次第説法11[次第説法 四聖諦③]



前回の補足です。


前回「いくら他の仏教知識を学び、知っていても
四聖諦を知って本当に理解していないならば、それは意味が無い。」的な雲や雨の喩えだったと思うのですが、


では歴史上の人物であったとされるゴータマ・ブッダは四聖諦の重要度を他の経典ではどう話されていたのでしょうか?


( 原始仏典 如是語経 四の部  講談社 P312より引用)


一〇三 沙門


「まことに、比丘たち、どんな沙門あるいはバラモンにしても、


これは苦しみである、とあるがままに理解せず、


これは苦しみのおこる原因である、とあるがままに理解せ


これは苦しみの消滅である、とあるがままに理解せず、

これは苦しみの消滅に到る道である、とあるがままに理解しない者は、比丘たち、私は彼らを沙門であるともバラモンであるともしない。


また彼らを沙門の中の沙門であるとも考えず、バラモンの中のバラモンであるとも考えない。


そしてまた、君たち、彼らは自らすぐれた能力があって、この世で沙門の意義、またはバラモンの意義を実証し、完全にそなえているのでもないのである。


しかしながら、まことに、比丘たち、どんな沙門あるいはバラモンにしても、


これは苦しみである、とあるがままに理解し、


これは苦しみのおこる原因である、とあるがままに理解し、


これは苦しみの消滅である、とあるがままに理解し、


これは苦しみの消滅に到る道である、とあるがままに理解する者は、


比丘たち、私は彼らを沙門であるともバラモンであるともする。


また彼らを沙門の中の沙門であるとも考え、バラモンの中のバラモンであるとも考える。


そしてまた、君たち、彼らは自らすぐれた能力があって、沙門の意義、またはバラモンの意義を実証し、完全にそなえているのである」



 苦しみと苦しみのおこる原因とを知らず、
また、あまねく苦しみが残りなく消滅するところを知らず、


さらに、苦しみの消滅に到る道を知らない人たちは、
心の精神的自由と智慧による精神的自由とを欠き、
苦しみを根絶することができず、


生まれることと老いることとの苦し
みに到る。


しかし、苦しみと苦しみのおこる原因とを知り、
また、あまねく苦しみが残りなく消滅するところを知り、


さらに、苦しみの消滅に到る道を知る人たちは、心の精神的自由と智慧による精神的自由とをそなえ、


苦しみを根絶することができ、生まれることと老いることとの苦しみに到らない。


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パーリ語経典において、これ程重要なこの四聖諦の詳しい内容は、これから追々ご紹介していきたいと思っています。

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