インド最初期仏教への誘い

現存するパーリ語仏教経典からの引用による仏教紹介。

次第説法で聖者の仲間入りするということは、最終的に四聖諦を智慧で見、理解することのようです。次第説法8[次第説法 概要⑧ 四聖諦①]



↑この補足ですが、一方に坐ったポッカラサーティ・バラモンに、世尊は、順々の話[次第説法]をされた。



すなわち、布施の話、戒の話、天の話、もろもろの欲望における危難、卑劣・汚れを、離欲における功徳を説明された。

世尊は、ポッカラサーティ・バラモンが従順な心になり、柔和な心になり、

障りのない心になり、向上する心になり、

浄らかな心になったことをお知りになると

もろもろの仏が自ら称賛する法の教えをすなわち、



苦・集・滅・道 
[苦 ・苦の生起・苦の滅尽・苦の滅尽にいたる行道という四聖諦]を説き示された。


すると、ちょうど染みのない清浄な布が完全に染料を受けとるように、
ポッカラサーティ・パラモンには、即座に、



「生じる性質のものはすべて滅する性質のものである」という、塵を離れ垢を離れた法の眼が生じた。」


この次第説法の終わりで言うところの四聖諦の「悟り方」、聖者の仲間入りになったという法の眼が生じたという意味は、


四聖諦を見ること、智慧で理解することで預流道(果)になる事の意味のようです。


そのことは別の経典、中部経典 第二 一切煩悩経 片山一良訳 大蔵出版P55〜でも語られています。


「〜かれは、〈これは苦である〉と正しく思惟します①。〈これは苦の生起である〉と正しく思惟します。 
〈これは苦の滅尽である〉と正しく思惟します。 
〈これは苦の滅尽に至る行道である〉と正しく思惟します。


このように正しく思惟する
かれに、三の束縛②、すなわち、自身見・疑惑・戒禁取が断たれます。


比丘たちよ、
これらが、見ることによって③ 断たれるべきもろもろの煩悩と言われます。」


✽伝統的注釈書による注 


見ることによって③→dassana 慧眼のみで見ること。肉眼によってではない。
「自身見と戒禁取は、見の煩悩」


✽僕の個人的感想


「自身見と戒禁取は、見の煩悩」であると注釈書にあるということは、次第説法という布施から始まって→四聖諦という説法〈正見?〉を聞き、〈邪見?〉から目覚めたという感じでしょうか?


瞑想すること無しに、見解で見解を正すという感じでしょうか。


そうしますと、聖者の第一段階、預流果に先ずは到達するということなのでしょうか。。。。。。


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僕のざっとくりとした注釈 


①思惟とは、yoniso manasi kaara 如理作意 理性的に根本から考える事。


②三つの束縛
1 自身見  自他共の中に何か永遠のもの、変わらないもの、堅固なものがあるという見解。


2 疑  その疑いが今まで自分にあったということ。


3 戒禁取  儀礼、しきたりで苦しみから完全に逃れられるという見解。

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