インド最初期仏教への誘い

現存するパーリ語仏教経典からの引用による仏教紹介。

ゴータマ・ブッダが説く「わが教えにおいて禅定は真髄ではない。」アッサジ経 part③まとめ 相応部経典から 番外編[禅定について]


⇑ 前回の続きです。


今回は、「禅定を獲得できなかったことへの不行儀と後悔を釈尊へ告白する場面」のまとめになります。


アッサジ経 (Assaji-sutta)
パーリ仏典 第三期5 相応部 蘊篇 蘊相応第九 長老の章 大蔵出版p436~



受を知る(ゴータマ・ブッダ曰く)


もしかれが楽受を感受するなら、それは
無常である、と知ります。
執著されないものである、と知ります。
歓喜されないものである、と知ります。


もしかれが苦受を感受するなら、それは
無常である、と知ります。
執著されないものである、と知ります。
歓喜されないものである、と知ります。


もしかれが非苦非楽受を感受するなら、 それは
無常である、と知ります。
執著されないものである、と知ります。
歓喜されないものである、と知ります。


もしかれが楽受を感受するなら、離縛者としてそれを感受します。
もし苦受を感受するなら、離縛者としてそれを感受します。
もし非苦非楽受を感受するなら、離縛者としてそれを感受します。


もしかれが身に限定される受を感受する場合、〈私は身に限定される受を感受する〉と知ります。
もし命に限定される受を感受する場合、〈私は命に限定される受を感受する〉と知ります。
〈身が壊れ、命が尽きた後、ここに、あらゆる感受されたものは、歓喜されず、冷たくなるであろう〉と知ります。


アッサジよ、たとえば油と灯心とによって油灯が燃えるとします。
その油と灯心とが尽きると、燃料のないものとして、消えてしまいます。

アッサジよ、ちょうどそのように、比丘が身に限定される受を感受する場合、〈私は身に限定される受を感受する〉と知ります。
もし命に限定される受を感受する場合、〈私は命に限定される受を感受する〉と知ります。
〈身が壊れ、命が尽きた後、ここに、あらゆる感受されたものは、歓喜されず、冷たくなるであろう〉と知ります」と。(終わり)

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翻訳者の片山一良氏の解説曰く
その第六「アッサジ経」は、仏が重病のアッサジ長老を見舞われ、病気になって禅定が獲得できなかったと語る長老に、五蘊(ごうん)の無我を見る聖なる弟子は五蘊を厭離(「えんり・おんり」嫌って離れること)し、離貪し、解脱することを説き、禅定より観・道・果の獲得が大事であることを油と灯心と油灯の比喩によって示されたものである。

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結局、「いかなる感覚も無常であるから、執着に値しないもの、喜べないもの」「身体に付随する感覚も、死ねば終わり」という事のようです。


次回は、禅定を修めた、様々な神々が住む天界の次元、その寿命の経典をご紹介したいと思っています。

ゴータマ・ブッダが説く「わが教えにおいて禅定は真髄ではない。」アッサジ経 part② 相応部経典から 番外編[禅定について]


前回の続きです。
今回は、アッサジ比丘の語る「禅定を獲得できなかったことへの不行儀と後悔を釈尊へ告白する場面」になります。


アッサジ経 (Assaji-sutta)
パーリ仏典 第三期5 相応部 蘊篇 蘊相応第九 長老の章 大蔵出版p431~
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「尊師よ、以前、私は、病気になりましたとき、もろもろの身行を静め、静めて、住みました。
しかし、その私は、禅定(samādhim.)を獲得できませんでした。
尊師よ、そこで、その禅定が獲得できない私は、このように思いました。
〈私は衰退しているのではないか〉と」。


(ゴータマ・ブッダ曰く)
「アッサジよ、およそ禅定を真髄とし、禅定を沙門位とする(samādhisārakā samadhisāmaññā)、沙門、バラモンたちは、その禅定が獲得できないとき、そのように〈私は衰退しているのではないか〉と思うものです」

聞をそなえた聖なる弟子 (五蘊「ごうん」の無常・苦・変化法)


「アッサジよ、そなたはそのことをどう思いますか。 つまり、
(色) 色は常住ですか、 それとも無常ですか」と。

「無常です、尊師よ」と。


「それでは、無常であるものは苦ですか、それとも楽ですか」
「苦です、尊師よ」と。


「それでは、無常であり、苦であり、変化の法であるものを、〈これは私のものである。これは私である。これは私の我である〉と随見することは適切ですか」と。
「そうではありません、尊師よ」と。


(受) (想)(行)(識)
「受(想)(行)(識)は常住ですか、それとも無常ですか」と。
「無常です、尊師よ」と。


「それでは、無常であるものは苦ですか、それとも楽ですか」
「苦です、尊師よ」と。


「それでは、無常であり、苦であり、変化の法であるものを、〈これは私のものである。これは私である。これは私の我である〉と随見することは適切ですか」と。
「そうではありません、尊師よ」と。


(引用者注釈 五蘊(うん)
 物質、身、身体、のこと。
以下は心の構成要素。
 感受作用のこと。(引用者注 感覚のこと。楽しい感覚、苦しい感覚、どちらでもない感覚など。)
 想念、判断作用のこと。 (引用者注 概念、印象。映像、赤、白、黄色などの色の識別など。)
 意思、形成作用のこと。(引用者注 エネルギー、形成力。やる気、気持ち。例えば毎日ラジオ体操、ラジオ語学番組を聞こうと決意しても次第にやる気が続かなくなってしまうなど。)
 意識作用のこと。(引用者注 認識など。)


(五蘊の無我)
「アッサジよ、それゆえ、ここに、
(色)いかなるも、過去・未来・現在のものであれ、内のものであれ、外のものであれ、粗大なものであれ、微細なものであれ、劣ったものであれ、勝れたものであれ、遠くのものであれ、近くのものであれ、


すべて、〈これは私のものではない。これは私ではない。 これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しい慧によって見られるべきです。


(受) (想)(行)(識)
いかなる(受) (想)(行)(識)も、過去・未来・現在のものであれ、内のものであれ、外のものであれ、粗大なものであれ、微細なものであれ、劣ったものであれ、勝れたものであれ、遠くのものであれ、近くのものであれ、


すべて、〈これは私のものではない。これは私ではない。 これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しい慧によって見られるべきです。


( 五蘊の厭離「えんり・おんり」嫌って離れること)


アッサジよ、このように見る、聞をそなえた聖なる弟子は、
についても厭離します。
についても厭離します。
についても厭離します。
諸行についても厭離します。
についても厭離します。
厭離し、離貪します。離貪により、解脱します。



解脱したとき、 〈解脱した〉との智が生じます。
〈生まれは尽きた。 梵行は完成された。なすべきことはなされた。もはや、この状態の他にはない〉と知ります。

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いわゆる五蘊(うん)の意味につきましては⇩、


【超重要】サーリプッタ尊者が説く「初めての方のための仏教の学び方」これだけ理解すればまず仏教は十分。PART2 本編[次第説法31 欲の欠点、危難⑥ 離欲の利点、功徳④] - インド最初期仏教への誘い


【決定版】ブッダが説く、悩み、苦しみの根本的原因とその解決法とは?PART 1[次第説法28 欲の欠点、危難③ 離欲の利点、功徳①] - インド最初期仏教への誘い


を参照して頂き、
禅定の欠点としましては、⇩
ゴータマ・ブッダが説く「感受(感覚)の危難(欠点)とは何か?」四聖諦を理解するために。「苦Dukkhaドゥッカ」の意味とは?大苦蘊経 PART15[次第説法48 感受(感覚)の危難(欠点)] - インド最初期仏教への誘い
をご参照下さい。


要は昔も今も「禅定・サマーディ・究極の集中こそが悟り」だと勘違いしているものは居た、居るという事だと思われます。


要は、瞑想の目的とは、瞑想対象の変化を観る」という事だと思われます。


「禅定・サマーディ・究極の集中」であれ、何であれ、【すべて形成されたものは無常である】という事のようです。


全てが無常ならば、禅定も好きなもの無常で、自分から去っていくもの。
愛おしい眼耳鼻舌身意の感覚器官も壊れて行ってしまうもの。
愛おしい色声香味触法という外部対象も壊れて去って行ってしまうもの。


なのでなのでしょうね。
故に自分のものに出来ないものなのでしょうね。


「つぎに、比丘たちよ、もろもろの感受(禅定)の危難とは何か。
比丘たちよ、感受(禅定)は無常であり、苦であり、壊滅する性質のものです。それゆえ、これが感受の危難です。

(パーリ語仏典 中部経典第13 大苦蘊経(mahaa dukkha khanda sutta) 片山一良訳 大蔵出版 P247~)


277「 一切の形成されたものは無常である」と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。



278「 一切の形成されたものは苦しみである」と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。



279「 一切の事物は我ならざるものである」と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。


ブッダの真理のことば 感興のことば P49~ 岩波文庫 中村元訳 ダンマパダ


次回はこの続き、まとめの経典になります。

 ゴータマ・ブッダが説く「わが教えにおいて禅定は真髄ではない。」アッサジ経 part1 相応部経典から 番外編[禅定について]


⇑前回の続きです。
今回から八正道の中に、(禅定、正定は入っている、欲を離れるためには必要であるが、~前回の話)‘’禅定は仏教の真髄ではない‘’というお経をご紹介したいと思います。


アッサジ経 (Assaji-sutta)
パーリ仏典 第三期5 相応部 蘊篇 蘊相応第九 長老の章 大蔵出版p428~ 


このように私は聞いた―
あるとき、世尊は、ラージャガハに近い、竹林のカランダカニヴアーバに住んでおられた。
ちょうどそのとき、尊者アッサジは、カッサパカ僧院に住み、病にかかり、苦しみ、重症であった。


さて、尊者アッサジは、看護者たちに話しかけた。


「さあ、友たちよ、あなたがたは世尊がおられるところへ行ってください。行って、私の言葉でもって、 世尊の御足に額づき、礼拝してほしい。『尊師よ、アッサジ比丘は病にかかり、苦しみ、重症です。かれは、世尊の御足に額づき、礼拝いたします』 と。


そしてまた、このように申し上げてほしい。
『尊師よ、どうか世尊は、アッサジ比丘がいるところへ、憐れみを垂れて、お近づきくださいますように』と」


「わかりました、友よ」と、その比丘たちは尊者アッサジに応え、世尊がおられるところへ近づいて行った。行って、 世尊を礼拝し、一方に坐った。
一方に坐ったその比丘たちは、世尊にこう申し上げた。


「尊師よ、アッサジ比丘は病にかかり、苦しみ、重症です。 かれ
は、世尊の御足に額づき、礼拝いたします。そしてまた、このよう
に申し上げます。


『尊師よ、どうか世尊は、アッサジ比丘がいるところへ、憐れみを垂れて、お近づきくださいますように』と」。
世尊は、沈黙により、同意された。


さて、世尊は、夕刻時に、独坐から立ち上がり、 尊者アッサジがいるところへ近づいて行かれた。
仏の見舞いと説法


尊者アッサジは、世尊が遠くから来られるのを見た。 見て、 床座の上で全身を動かした。
そこで、世尊は、尊者アッサジにこう言われた。
「やめなさい、アッサジよ。そなたは床座の上で全身を動かして
はいけません。これらの座が用意されています。私はそこに坐りま
す」


世尊は用意されている座に坐られた。 坐ると、世尊は、尊者アッ
サジにこう言われた。


「アッサジよ、そなたは大丈夫ですか。 生きて行けますか。 苦痛は減退していますか、増進していませんか。これらの減退は認められますか、増進は認められませんか」と。


「尊師よ、私は大丈夫でありません。生きて行けません。私の苦痛は激しく増進し、減退しておりません。 これらの増進は認められ、減退は認められません」と。


「アッサジよ、そなたには何らかの不行儀がありますか。 何らかの後悔がありますか」と。


「尊師よ、確かに私には、少なからず不行儀があり、少なからず後悔があります」と。


「アッサジよ、それでは、自己が、戒について、 そなたを責める
ことはないのですか」と。


「尊師よ、自己が、戒について、私を責めることはありません」と。


「アッサジよ、もし自己が、戒について、そなたを責めることが
なければ、そなたにはどのような不行儀があり、どのような後悔があるのですか」と。


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次回は、アッサジ比丘の語る「禅定を獲得できなかったことへの不行儀と後悔を釈尊へ告白する場面」に続きます。。