インド最初期仏教への誘い

現存するパーリ語仏教経典「現上座仏教教団(スリランカ タイ ミャンマー国等の保持)」からの引用による仏教紹介。

苦しみや悲しみは愛情から起こる。愛生経(Piyajātika-sutta)中部経典第87からPART1

インド最初期仏教への誘い

↑前回の続きです。

中部経典第87  パーリ仏典中部4  片山一良訳 大蔵出版 p294~

愛生経(Piyajātika-sutta) 導入篇
 
このように私は聞いた――
あるとき、世尊は、サーヴァッティに近いジェータ林のアナータピンディカ僧院に住んでおられた。
ちょうどそのころ、ある資産家の可愛い、愛しい一人息子が死んだ。 その死によって、かれは仕事も食事も手がつかなかった。かれは墓地に行っては、〈一人子よ、どこにいるのか。一人子よ、どこにいるのか〉と泣いた。
ときに、その資産家は世尊がおられるところへ近づいて行った。行って、世尊を礼拝し、一方に坐った。一方に坐ったその資産家に、世尊はこう言われた。
「資産家よ、そなたには自分の心にとどまる諸感官がありません。そなたの諸感官に異変があります((注) 顔色が悪いことによる異変のこと。)」と。
 
「尊師よ、どうして私の諸感官に異変の起こらないことがありましょうか。なぜならば、尊師よ、私の可愛い、愛しい一人息子が死んだからです。その死によって、私は仕事も食事も手がつきません。この私は墓地に行っては、〈一人子よ、どこにいるのか。一人子よ、どこにいるのか〉と泣いております」
 
「資産家よ、それはそのとおりです。なぜなら、資産家よ、 愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは、
愛情から生じ、愛情から起こるからです
 
「尊師よ、いったい誰がそれをそのように、〈愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは愛情から生じ、愛情から起こる〉と思うのでしょうか。なぜなら、尊師よ、 歓喜・喜びが愛情から生じ、愛情から起こるからです」と。
 
そこで、その資産家は世尊が説かれたことを喜ばず、非難した。そして、座から立ち上がり、去って行った。
 
ちょうどそのとき、多くの賭博師が世尊から遠くないところでサイコロによって遊んでいた。そこで、かの資産家はかれら賭博師に近づいて行った。行って、賭博師たちにこう言った。
 
「皆さん、私は今、沙門ゴータマのところに近づいて行きました。行って、沙門ゴータマを礼拝し、一方に坐りました。皆さん、一方に坐った私に沙門ゴータマはこのように言いました。
 
「資産家よ、そなたには自分の心にとどまる諸感官がありません。そなたの諸感官に異変があります((注) 顔色が悪いことによる異変のこと。)」と。
 
皆さん、このように言われて、私は沙門ゴータマにこう言いました。
 
『尊師よ、私の諸感官に異変の起こらないことがありましょうか。なぜならば、
尊師よ、私の可愛い、愛しい一人息子が死んだからです。その死によって、私は  仕事も食事も手がつきません。この私は墓地に行っては、〈一人子よ、どこにいるのか。一人子よ、どこにいるのか〉と泣いております』と。
 
「資産家よ、それはそのとおりです。なぜなら、資産家よ、 愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは、
愛情から生じ、愛情から起こるからです」と。
 
「尊師よ、いったい誰がそれをそのように、〈愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは愛情から生じ、愛情から起こる〉と思うのでしょうか。なぜなら、尊師よ、 歓喜・喜びが愛情から生じ、愛情から起こるからです」と。
 
皆さん、そこで私は沙門ゴータマが説かれたことを喜ばず、非難しました。
そして、座から立ち上がり、去って行ったのです」と。
 
「資産家よ、それはそのとおりです。資産家よ、それはそのとおりです。なぜならば、資産家よ、歓喜喜びが愛情から生じ、愛情から起こるからです」と。
 
すると、その資産家は、「私と賭博師たちと一致した」と、去って行った。そして、この話題が次第に王宮内に達した。
 
~PART2へ続く

悲しみや苦しみはいかなるものも愛する者を縁として生じる。「如是語経から」

インド最初期仏教への誘い

原始仏典八 ブッダの詩 講談社 長崎法潤 訳 如是語経 p188~
光明寺経蔵様→トップ→ 「小部」『感興語→「パータリ村品」ヴィサーカー経」(『感興語』78
このように私は聞いた。
 あるとき、世尊はサーヴァッティの東の園にあるミガーラマーターの講堂においでであった。
そのとき、ヴィサーカーミガーラマーターの可愛がっていた気に入りの孫が亡くなった。
ヴィサーカー・ミガーラマーターは日中に濡れた衣服のまま、濡れた髪のままで世尊のところへやって来た。
やって来て世尊に挨拶して片隅に坐った。
片隅に坐ったヴィサーカー・ミガーラマーターに世尊は言われた。

「やあ、ヴィサーカーよ、おんみはどうして日中に濡れた衣服のまま、濡れた髪のままでここへやって来たのか」
 
「師よ、私の可愛がっていた気に入りの孫が亡くなりました。それで私は日中に濡れた衣服のまま、濡れた髪のままでここに参りました」
 
ヴィサーカーよ、汝はサーヴァッティの人々の数だけの子、その数だけの孫を得たいと思うか」
 
「世尊よ、私はその人々の数だけの子、その数だけの孫を得たいと思います」
 
「しかし、ヴィサーカーよ、サーヴァッティでは日々どれほど多くの人々が亡くなるか」
 
「師よ、サーヴァッティでは日々十人が亡くなることもあります。
また、師よ、サーヴァッティでは日々九人が亡くなることもあります。
また、師よ、サーヴァッティでは日々八人が亡くなることもあります。
また、師よ、サーヴァッティでは日々七人亡くなることもあります。
また、師よ、サーヴァッティでは日々六人亡くなることもあります。
また、師よ、サーヴァッティでは日々五人亡くなることもあります。
また、師よ、サーヴァッティでは日々四人亡くなることもあります。
また、師よ、サーヴァッティでは日々三人亡くなることもあります。
また、師よ、サーヴァッティでは日々二人亡くなることもあります。
また、師よ、サーヴァッティでは日々一人が亡くなることもあります。
師よ、私はサーヴァッティにおいて亡くなる人に遭わないことはありません」
 
ヴィサーカーよ、おんみはいかに思うか。そうだとしたらおんみは、いつ、どこでも、濡れていない衣服をつけ、あるいは濡れていない髪でいるようなことはないのではなかろうか」
 
「師よ、ございません。師よ、それほど多くの子や孫によって死別の悲しみを味わわされるのはたくさんでございます」
 
百人の愛する者をもつ人には百の苦しみがある。
九十人の愛する者をもつ人には九十の苦しみがある。
八十人の愛する者をもつ人には八十の苦しみがある。
七十人の愛する者をもつ人には七十の苦しみがある。
六十人の愛する者をもつ人には六十の苦しみがある。
五十人の愛する者をもつ人には五十の苦しみがある。
四十人の愛する者をもつ人には四十の苦しみがある。
三十人の愛する者をもつ人には三十の苦しみがある。
二十人の愛する者をもつ人には二十の苦しみがある。
十人の愛する者をもつ人には十の苦しみがある。
九人の愛する者をもつ人には九つの苦しみがある。
八人の愛する者をもつ人には八つの苦しみがある。
七人の愛する者をもつ人には七つの苦しみがある。
六人の愛する者をもつ人には六つの苦しみがある。
五人の愛する者をもつ人には五つの苦しみがある。
四人の愛する者をもつ人には四つの苦しみがある。
三人の愛する者をもつ人には三つの苦しみがある。
二人の愛する者をもつ人には二つの苦しみがある。
一人の愛する者をもつ人には一つの苦しみがある。
愛する者をもたぬ人には苦しみがない。
その人々は愁いなく塵垢(ちりあか・じんこう)なく憂悩がない、と私は言う」
 
ときに、世尊はそのことを知って、そのときこのウダーナを唱えられた。
 
およそこの世における種々さまざまの愁いや、悲しみや、苦しみはいかなるものも愛する者を縁として生ずる。
 
愛する者がなければ、それらはない。
 
ゆえに、この世のいずこにも愛する者のない人々は安楽であり、愁いを離れている。
 
ゆえに、愁いなく塵垢を離れていることを望む人は、世のいずこにおいても愛する者を作るなかれ、と。

以上引用終わり----------。
結局この話は単純明快で、これを理解してから仏教やるなり、修行、(必要ある人ならば)瞑想したほうがよろしいとは個人的に思います(笑)。
つまりこれは在家用に「四聖諦」を語っているわけです。在家の人が理解できるように語っているわけです。 人間が経験する苦しみの原因は自分の愛着、欲にあると教えているわけです。

↓ 在家に説く仏教のわかりやすい要旨をサーリプッタ尊者が説く。(相応部経典から)

「いったい尊者方の師(ブッダ)は何を説き、何を語られるのか?」と。
友らよ、このように問われたならば、あなたたちはつぎのように解答すべきです。

「友らよ、われわれの師は 欲と貪りの調伏(ちょうぶく)を語るお方です」と。

(注釈  (chandaチャンダ)と貪り(むさぼりraagaラーガ)の調伏(ちょうぶくvinayakkhaayii  引用者注 律する。抑える。) 

要はインド最初期仏教〔パーリ語仏教〕(経・律・論)のうち現存している経典に書かれている趣旨の題目は、いかにを克服するか?に焦点を合わせていると思われます。

人間にがあって、それをいかに克服するか?問題在家に対して 瞑想なしにたとえ話を使って解決策、四聖諦を語っているんですね。これは超一流の指導者ぐらいしかできない芸当だと思われます。

例えば預流果、阿羅漢果etcに悟るためにはどうすればいいか?というような論点で話を決して進めてはいないということです。

だから四聖諦を聖諦というわけで、話を進めている。

インド最初期仏教の修行法を説いている大念処経の四聖諦の八正道の正見のコーナーでは、よっての定義とその苦の克服法理解する事、マスターする事になっています。

四聖諦=聖諦の説明

https://komyojikyozo.web.fc2.com/dnmv/dn22/dn22c06.htm

修行(瞑想etc)する際の心得 小部経典 『如是語』経から

インド最初期仏教への誘い

原始仏典八 ブッダの詩 講談社 長崎法潤 訳 如是語経 p252~

ネットですと光明寺経蔵様→小部→如是語 「一集」「第三品」 54番目 「第一の尋求経」(『如是語』54) 「第二の尋求経」(『如是語』55

https://komyojikyozo.web.fc2.com/kn/kn04/kn04c021.htm

五四  求める心
 
たしかに次のことを世尊が説かれた、尊むべきお方が説かれた、と私は聞いている。
 
「比丘たち、これら三つの求める心がある。三つとは何か、
①  欲望の楽しみを求める心
②生存を求める心
③浄らかな修行によって名声を得ることを求める心である。
比丘たち、これらは、まことに、三つの求める心である」
 
このことを世尊は語られ、それについて次のように説かれた。
 心落ち着き、熟慮し、思念するほとけの弟子は、求める心と、求める心のおこりとを知る。
その心が止むところと、ならびにその消滅に到る道とを知り、比丘は、求める心を消滅
すれば、無欲なる者、涅槃に入った者である。
このことをもまた世尊は説かれた、と私は聞いている。
 
五五 求める心
たしかに次のことを世尊が説かれた、尊むべきお方が説かれた、と私は聞いている。
 
「比丘たち、これらの三つの求める心がある。三つとは何か。
①欲望の楽しみを求める心、
②生存を求める心、
③浄らかな修行によって名声を得ることを求める心である。
 
比丘たち、これらは、まことに、三つの求める心である」
 
このことを世尊は語られ、それについて次のように説かれた。
 
欲望の楽しみを求める心、生存を求める心、浄らかな修行によって名声を得ることを求める心、この三つの集まりは、これは真実であると誤って執着することであり、誤った見解を生ずるところである。
 
すべての貪りを離れ、貪りの心を滅して完全な精神的自由を得た者は、求める心を離れ、誤った見解の生ずるところを根絶している。求める心の消滅によって比丘は欲なく、疑うことがない。
 
★引用終わり
 
③浄らかな修行によって名声を得ることを求める心である。
の原文は brahmacariya esanā になります。
これをどう訳すか?ですが「五四  求める心」のこの訳は的を得ていると思われます。
 
いわゆる仏道修行をするにあたって、出家するなり、あるいは在家者でありながら特に瞑想するなりする際にその気持ち、動機の心の奥底には自分に③浄らかな修行によって名声を得ることを求める心があることも少なくないと思われます。
 
いわゆる物欲は失くして修行するわけですが、その替わりに精神的な欲、せっかく出家したのだから、在家瞑想修行をしたのだから精神的な何かを得たいという欲が生まれてしまっている、起こっているというのもあると思われます。
 
その御自身の悟りたい、想像できない、経験してもない架空の悟りなどを目指す、また人に認められたいという気持ちも求める心として、その心を持っていることに気づき(sati)、認識し捨てられるか?が大切なポイントだと思われます。
 
一切の苦しみを無くしたいという希望願望、具体的に想像できる欲(四聖諦)であるならばわかる気もします。