インド最初期仏教への誘い

現存するパーリ語仏教経典からの引用による仏教紹介。

ゴータマ・ブッダの主張「他の多数の仏教知識を知っていても、四聖諦を知って理解していなければ意味はない。」次第説法10[次第説法 四聖諦②]



↑ 前回の補足なりますが、今回は如何に四聖諦の理解が最も大事か?「他の多数の仏教経典や仏教知識を知っていても、四聖諦を知って理解していなければ意味がない」と言うゴータマ・ブッダの説法をご紹介します。


手元に古い訳文しかないので、すみませんがそれを引用致します。
(南伝大蔵経 増支部経典 第四集 第一雲品 P181から引用)


「比丘衆よ、此等は四の雲なり、何をか四とす。

①鳴りて雨らさず、②雨らして鳴らざる、③鳴らず又雨らさざる、④鳴り又雨らす。  比丘衆よ、此等の四の雲あり。」


この訳文では要は、ブッダ曰く、「修行僧達よ、4つの雲がありますよ。


①雷鳴が鳴って、雨を降らさない雲のパターン。
②雷鳴が鳴らず、雨を降らす雲のパターン。


③雷鳴も鳴らず、雨も降らさない雲のパターン。
④雷鳴も鳴り、雨も降らす雲のパターン。がありますよ。」


「比丘衆よ、正に是の如く、此等の四の雲に喩ふべき補特伽羅(人間)ありて世の中に存す、何をか四とす。」


このように、この4つの雲に喩えられる人間が世の中にも居ますよと、修行僧達に話しているのですね、ブッダは。


「 比丘衆よ、又云何にして、補特伽羅(人間)あり、①鳴りて雨らさざるか。 」


では①雷鳴が鳴って雨を降らさない人間とは何か?


「 経・應頌・記説・諷頌・無問自説・如是説・本生・未曾有法・知解の本文に通達す、 



彼は

此は苦なりと如實(如実)に知らず、

こは苦の集なりと如実に知らず、

こは苦の滅なりと如実に知らず、

此は苦の滅に趣く道なりと如実に知らず、


そのような人間は、いろいろなお経(九部経、九分経)を知ってるが、四聖諦を知らない人間のようなものだとブッダは語っているのですね。


P191では別の喩えとして、ネズミが穴を掘って、住まないようなものだと語っています。


②雷鳴が鳴らず、雨を降らす雲のパターン。
は、たくさんの仏教知識は無いが、四聖諦は理解してる人間。


別な喩えでは、ネズミが住んで、穴を掘らないようなもの。


③雷鳴も鳴らず、雨も降らさない雲のパターンたくさんの仏教知識は無いし、四聖諦も理解してない人間。


別な喩えでは、穴を掘らずまた住みもしないネズミのようなもの


④雷鳴も鳴り、雨も降らす雲のパターン。


このような人間は、いろいろなお経(九部経、九分経)を知ってるし、四聖諦も知っている人間のようなもの。


ネズミで言えば、穴を掘りまた住んでいるようなもの。


結論としまして、


いくら仏教知識を学び、知っていても
四聖諦を知って本当に理解していないと意味無いよと主張しているのではないでしょうか?


初期仏典に出てくる現実の存在として登場しているゴータマブッダその人は、預流果の条件として、だから四聖諦の理解を次第説法の最後に説いたのではないでしょうか?


たくさんの仏教知識が無くても、初期仏典に説明されている四聖諦を知り、理解していれば聖者の仲間の流れに入ってますよ、
と言うことをゴータマブッダは主張したいのではないか?


と僕個人は感じます。


それでは次回は次第説法の第一番目の項目、布施をご紹介していきたいと思っています。


膨大な経典群からの該当にほぼ価する検索なので投稿に時間はかかるとは思われます。



引用全訳


百二
比丘衆よ、此等は四の雲なり、何をか四とす。


鳴りて雨らさず、②雨らして鳴らざる、③鳴らず又雨らさざる、④鳴り又雨らす。  比丘衆よ、此等の四の雲あり。


比丘衆よ、正に是の如く、此等の四の雲に喩ふべき補特伽羅(人間)ありて世の中に存す、何をか四とす。


①鳴りて雨らさず、②雨らして鳴らざる、③鳴らず又雨らさざる、④鳴り又雨らす。  


比丘衆よ、又云何にして、補特伽羅(人間)あり、①鳴りて雨らさざるか。


比丘衆よ、世に一類の補特伽羅(人間)あり、


経・應頌・記説・諷頌・無問自説・如是説・本生・未曾有法・知解の本文に通達す、 


彼は
此は苦なりと如實(如実)に知らず、


こは苦の集なりと如実に知らず、


こは苦の滅なりと如実に知らず、


此は苦の滅に趣く道なりと如実に知らず、


比丘衆よ、是の如きは、補特伽羅(人間)あり、鳴りて雨らさざるなり、猶ほ、比丘衆よ、かの雲が鳴りて雨らさざるが如し、



比丘衆よ、
我は此の補特伽羅(人間)を斯く喩ふべきものと説く。

×

非ログインユーザーとして返信する