インド最初期仏教への誘い

現存するパーリ語仏教経典からの引用による仏教紹介。

預流道果(一番最初の聖者に仲間入り)に到達するとその後その人間はどうなるのか?ゴータマ・ブッダが比丘達に説く。[次第説法12 四聖諦④]



↑ 前々回の補足になりますが、如何に四聖諦の理解が最も大事か?「他の多数の仏教経典や仏教知識を知っていても、四聖諦を知って理解していなければ意味がない」とゴータマ・ブッダは主張されているようですが、


次第説法の最後の項目である、その四聖諦を正しい智慧で、在家一般人も出家修行僧も見るならば、その人間はその後、どうなるのか?をゴータマ・ブッダその人が出家修行僧に説いたお経です。


(原始仏典八 如是語経 長崎法潤 渡辺顕信 訳 講談社 P217から引用)


二四 ヴェーブッラ山


たしかに次のことを世尊が説かれた、尊むべきお方が説かれた、と私は聞いている。


「比丘たち。 一人の人間でも、一劫(いっこう)の間 迷いの生を重ね、さまよい流転したら、
その間に遺した骸骨・骨の積み重ね、骨の集まりは、
かのヴェーブッラ山(広普山、 ラージャガハをとりまく五つの山の一つ)のように大きくなるであろう。


かりにこれらの骨を集める者があっても蓄積された骨が失われることはないであろう」


このことを世尊は語られ、それについて次のように説かれた。


一人の人間が、一劫の間に遺す骨を積みあげれば、山のような量になるだろう、と偉大な聖仙(ほとけ)は説かれた。


またその骨の山は、マガダ国のラージャガハ(王舎城)にあるギッジャクータ(霊鷲山)よりもなお高く、ヴェーブッラ山のように大きい、と語られた。


聖なる真実「四聖諦」を、すなわち
苦と
苦の生起と、
苦の超越と、
苦の静まりに到る八項目よりなれる聖なる道「八正道」とを、


正しい智慧で見るゆえに、
かの人は、最高でも七回まで迷いの生を重ねてさまようのみで、


その後すべての束縛を
消滅して、苦しみの終極に到る。


このこともをまた世尊が説かれた、と私は聞いている。
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在家一般人でも出家修行僧でも、一旦その人が預流道果(一番最初の聖者の仲間入り)に到達したならば、


必ず最後には最終的な目覚め、悟り、苦しみの全滅尽に自動的に到達する、約束されているという初期仏教、パーリ語仏教経典の中に登場するゴータマ・ブッダの宣言があるようです。


だから、ゴータマ・ブッダは他の仏教知識よりも、まず何よりも四聖諦の理解を、預流道果の到達を優先されていたのかな?と感じます。

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