インド最初期仏教への誘い

現存するパーリ語仏教経典からの引用による仏教紹介。

ゴータマ・ブッダが説く「欲の出離、解放とは何か?」四聖諦を理解するために。「苦Dukkhaドゥッカ」の意味とは?大苦蘊経 PART9[次第説法42 欲の出離、解放]

前回の続きです。↓

仏教で言う「苦 Dukkhaドゥッカ」とは何か?四聖諦を理解するために。大苦蘊経 PART1[次第説法33 欲の欠点、危難⑧ 離欲の利点、功徳⑥] - インド最初期仏教への誘い
「比丘たちよ、そのように語る異教の遊行者たちには、このように言うべきです。


『友らよ、いったい、もろもろの欲(kaama)の、
楽味(楽しみ)は何でしょうか?
危難(障害、煩わしさ)は何でしょうか?
出離(解放)は何でしょうか?


今まで、
もろもろの欲の
楽味(楽しみ)は何でしょうか?
危難(障害、煩わしさ)は何でしょうか?
を述べてきました。


欲の楽しみ、五つの感覚器官、眼耳鼻舌身から得られる楽しみは良いとしまして、それを得て楽しむにはさまざまなリスクがあり、ではそれを避けるためにはどうすれば良いのか?


今回はそのもろもろの欲の出離(解放)nissaranaは何でしょうか?


の項目です。


パーリ語仏典 中部経典第13 大苦蘊経(mahaa dukkha khanda sutta)片山一良訳 大蔵出版 P242~引用


欲の出離
「つぎに、比丘たちよ、もろもろの欲の出離とは何か。比丘たちよ、


もろもろの欲に対する欲貪の調伏(ちょうぶく)(chanda raaga vinayo)、

欲貪の捨断(chanda raaga pahaanam)、
これがもろもろの欲の出離です。


比丘たちよ、いかなる沙門であれバラモンであれ、このように、もろもろの欲の味を楽味として、 危難を危難として、出離を出離として、如実に知らない限り、かれらは、もろもろの欲を自ら知悉(ちしつ)するであろう〉とか、〈他をそのとおりに教誡するであろう〉とか、〈実践のとおりにもろもろの欲を知悉するであろう〉という、この道理は知られません。

しかし、比丘たちよ、いかなる沙門であれ、バラモンであれ、
このように、もろもろの欲の楽味を楽味として、 危難を危難として、出離を出離として如実に知るならば、〈かれらは、もろもろの欲を自ら知悉するであろう〉とか〈他をそのとおりに教誡するであろう〉とか、〈実践のとおりにもろもろの欲を知悉するであろう〉という、この道理が知られます」引用終わり。


欲を楽しもうとすると同時に生じる膨大なリスク↓
まとめ  四聖諦を理解するために。「苦Dukkhaドゥッカ」の意味とは?大苦蘊経 PART8[次第説法41 欲の欠点、危難] - インド最初期仏教への誘い

その欲のリスクを避けるためには、ズバリ、欲そのものを捨てるしかないというゴータマ・ブッダの解答ですね。


欲を捨てないのならば、欲を得ると同時に未来永劫、上記に記した様々な欲の危難、欠点の苦しみを受けなければならないという事ですね。


ブッダの教えは何か?と言えば、友らよ、われわれの師は 欲(chanda)と貪り(raaga)の調伏(ちょうぶく)を語るお方です」↓
【超重要】サーリプッタ尊者が説く「初めての方のための仏教の学び方」これだけ理解すればまず仏教は十分。PART2 本編[次第説法31 欲の欠点、危難⑥ 離欲の利点、功徳④] - インド最初期仏教への誘い


とサーリプッタ尊者がズバリ答えている通り、「仏教とは欲を捨てる教えになります。


ゴータマ・ブッダは「他人に、大衆に、説法する際には、根拠を指示して説法せよ。」と言われます。↓
歴史上に存在されていたとするブッダは如何にご自分の教え(仏教)を在家一般人に教えたのか?現存最古層の経典群から探ってみる。次第説法1[次第説法 概要その①] - インド最初期仏教への誘い


ではを捨てるためのその根拠は?何故、欲を捨てなければならないのか?と聞かれたら
まとめ  四聖諦を理解するために。「苦Dukkhaドゥッカ」の意味とは?大苦蘊経 PART8[次第説法41 欲の欠点、危難] - インド最初期仏教への誘い
↑ 欲を持つと同時に背負わせられる様々な危難、欠点、リスクと、


【超重要】サーリプッタ尊者が説く「初めての方のための仏教の学び方」これだけ理解すればまず仏教は十分。PART2 本編[次第説法31 欲の欠点、危難⑥ 離欲の利点、功徳④] - インド最初期仏教への誘い


↑ 物事はすべて変化するので、欲の対象とその欲を味わう自分も同時に変化して崩壊していくという事もまた避けられないから」という事実の根拠になると思います。


つまり
手に入りにくい欲の対象をいくら集めたとしても、自分の心がそれに飽きてしまい、嫌になることもありますし、嫌にならなくとも、マンネリ化してしまう。


また欲の対象そのものが変化、劣化してしまう、壊れてしまう(家族、連れ合いの心が変化する、自分から離れてしまう、家族が病気になる、死んでしまう、骨董品、豪華な建築物も劣化してしまう)。


それと何より欲の対象を味わう自分自身が崩壊していってしまう。例えば自分の身体が壊れる、病気になる。身体が歳を食ってボロボロになってしまう、骨が折れる、物も食えなくなる、寝たきりになる、失明する。眼も見え無くなり、耳も遠くなり、難聴になる。自分の持つ五つの感覚器官(眼、耳、鼻、舌、身体)が壊れてしまっては、外の欲の対象を味わうことも出来なくなる。

時間とともに崩壊していく欲の対象とその欲を味わう自分に最後まで執着していると、
誰でも最後は結局、必ず嘆き悲しむ羽目になる。


またたとえ天界に生まれて神になったとしても同じこと。神の寿命が来て死んでその次元から消え去ることになり、今まで積んで来た善業、徳が底をつき無くなれば悪趣に落ちるというサイクルになっている。神の生命もまた無常であるという事。


以上の理由から


この世で生きてるうちに、欲を捨てることを推薦するのが、
パーリ語仏教経典に出てくるゴータマ・ブッダの主張になっています。


いわゆる「この人間界でよく聞かれる、人間の持つ憧れ、目標、希望、願望としまして、永遠の幸せ、あの世での永遠の天国、永遠の神としての生命、永遠の仏国土など、この世、あの世を含む現象世界には、永遠性などはどこを探してもあり得ない(妄想の産物)。必ず最後は崩壊してしまう。」となっています。


ですので現世、来世すべての欲を捨てる修行法が、四聖諦の4番目の真理、道諦、八正道 (長部経典 大念処経 四聖諦の部 参照。光明寺経蔵 
https://komyojikyozo.web.fc2.com/index.html 長部→大篇→22 大念処経→(6)法随観 四諦の部))で、


特に正念、正定は、


正定 (サマーディ瞑想は欲を一時的に止める瞑想。眼耳鼻舌身という五つの感覚器官から得られる喜び楽しみよりもっと上の良いものがあると分かる経験をする瞑想。【中部経典 小苦縕経】 参照)


正念 (ヴィパッサナー瞑想はサマーディを含むすべての欲、妄想を永久的に止める瞑想。すべての欲(自他の存在欲も含めて)には意味がないということが分かる瞑想。【サマーディは現世の楽住に過ぎない】(中部経典 削減経 参照)。ダンマパダ184偈、


【サマーディは仏教の本質でない】(相応部経典 第一蘊相応 アッサジ経 参照。)


【サマーディ、第一禅定、二、三、四禅定はすべて無常、苦、壊滅する性質である故、禅定の感受vedanaaは危難、欠点がある。(中部経典第13 大苦蘊経 参照)

【禅定の欲も捨てることがすべての苦しみから脱することになる。何故なら禅定もまたいつかは壊れるから。】
長部経典 大念処経 四聖諦の部 第二番目の真理、集諦の注釈 片山一良訳 参照】になっています。



原始仏教、パーリ語で遺された経典ではそうなっています。


当時の仏弟子の言葉。↓


いかなる常住なる生存も存在しない。またもろもろの形成されたものも、常住ではない。
個人存在を構成する五つの要素(五蘊)は、次から次へと、生じては滅びる。


これは危ない患らいであると知って、わたくしは迷いの生存を求めることがなかった。
一切の愛欲から離れて、わたくしはもろもろの汚れを消滅するに至った。
尊き人・ウッタラ長老は、このように〔二つの〕詩句をとなえた。


ひろがる妄想(papanca)にふけり、妄想を喜びとする獣〔のごとき者〕、かれは、無上の安らぎ、安穏を獲得するに至らない。


妄想を捨てて妄想のない道を楽しむ者、
ーかれは、無上の安らぎ・安穏を体得するに至る。   
サーリープッタ長老


(仏弟子の告白テーラーガーター 岩波文庫 中村元訳 P45 P188~)


天界と人間界とのもろもろの欲望を、すべて断ちました。 迷いの生存を繰り返すことは、消滅しました。いまや迷いの生存を再び受けることはないのです。
他のウッタマー尼

(尼僧の告白テーリーガーター 岩波文庫 中村元訳 P18 )

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