インド最初期仏教への誘い

現存するパーリ語仏教経典からの引用による仏教紹介。

【決定版】ブッダが説く、悩み、苦しみの根本的原因とその解決法とは?PART 1[次第説法28 欲の欠点、危難③ 離欲の利点、功徳①]


一方に坐ったポッカラサーティ・バラモンに、世尊は、順々の話[次第説法]をされた。
すなわち、布施の話、戒の話、天の話、
もろもろの欲望における危難、卑劣・汚れを、離欲における功徳を説明された。
世尊は、ポッカラサーティ・バラモンが従順な心になり、柔和な心になり、
障りのない心になり、向上する心になり、浄らかな心になったことをお知りになると
もろもろの仏が自ら称賛する法の教えをすなわち、
苦・集・滅・道 [苦 ・苦の生起・苦の滅尽・苦の滅尽にいたる行道という四聖諦]
を説き示された。

すると、ちょうど染みのない清浄な布が完全に染料を受けとるように、
ポッカラサーティ・パラモンには、即座に、
「生じる性質のものはすべて滅する性質のものである」という、
塵を離れ垢を離れた法の眼(預流道)が生じた。 


今まで布施の話、戒の話、善行為などをし、人それぞれ、その人なりの幸せをつかんだものと仮定しまして、その後に来るであろう悩み、苦しみの問題にどう対処するのか?という事になります。
今回からもろもろの欲望における危難、離欲における功徳についての話になります。


ではゴータマ・ブッダその人は、欲の危難、幸せになった後に来るであろう悩み苦しみの原因とその解決方法をどのように説法されたのでしょうか?
相応部経典5 蘊(うん)相応 自島の章 片山一良訳 大蔵出版 P161~ から引用


自島経 (Attadiipa-sutta)


このように私は聞いた。あるとき、世尊は、サーヴァッティに近い、ジェータ林のアナータピンディカ僧院に住んでおられた。そこで、世尊は比丘たちに話しかけられた。
「比丘たちよ」と。
「尊い方よ」と、かれら比丘は世尊に答えた。


世尊はつぎのように言われた。「比丘たちよ、自己を島とし、自己を依り所とし、他を依り所とせずに、法を島とし、法を依り所とし、他を依り所とせずに住みなさい。


比丘たちよ、自己を島とし、自己を依り所とし、他を依り所とせずに、法を島とし、法を依り所とし、他を依り所とせずに住む者たちに、原因観察されるべきです。


〈愁い・悲しみ・苦しみ(dukkhaドゥッカ) ・憂い・悩みは、何によって生じ、何によって発生するのか〉と。


それでは、比丘たちよ、愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みは、何によって生じ、何によって発生するのでしょうか。


比丘たちよ、ここに、聞をそなえていない凡夫は、もろもろの聖者を見ず、聖者の法を熟知せず、 聖者の法に導かれず、もろもろの善人を見ず、善人の法を熟知せず、善人の法に導かれません。


かれは〈色を我である〉と、あるいは〈我は色を有する〉と、あるいは我の中に色がある〉と、あるいは〈色の中に我がある〉と随見(ずいけん)します。


かれのその色変化し、変異します。
かれには、変化、変異により、愁い・悲しみ・苦しみ ・憂い・悩みが生じます


しかしながら、比丘たちよ、色の無常性、変化、離貪、滅尽を知り、
昔の色も今の色もそのすべては無常であり、 苦であり、変化の法である〉と、


このようにこれを如実に、正しい慧によって見る者には、
愁い・悲しみ・苦しみ・憂い・悩みというもの捨断されます。


それらの捨断により、かれは震えません(恐れません)。震えない(恐れない)者は楽に住みます。 楽に住む比丘は、「その部分による寂滅者」と言われます。
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同様に、受、想、行、識も同じであると話は続づきます。
引用者注 
 物質、身体、物体などのこと。
以下は心の構成要素。
 感覚のこと。楽しい感覚、苦しい感覚、どちらでもない感覚など。
 概念、印象。映像、赤、白、黄色などの色の識別など。
 エネルギー、形成力。やる気、気持ち。例えば毎日ラジオ体操、ラジオ語学番組を聞こうと決意しても次第にやる気が続かなくなってしまうなど。
 認識など。


つまり、悩み苦しみの原因はなにか?と自分の身体と心を題材に観察するべきですよ、という問題提起がなされているということですね。


特に聖者の話、物事の道理を知っている人などの話を聞いたことのない人は、色(物質、身体、物体etc)や心(受 想 行 識)自分のもの、所有物として見てしまう。


しかしながら、身体もの、物体、物質、音声、人の自分の気持ち、認識、記憶、概念、印象等というのはやがて変化するもの、壊れるものだから、自分が愛着しているもの当然、遅かれ早かれ変化し消え去るそこで悩み、苦しみ(dukkhaドゥッカ)、悲しみが生じることになるという事ですね。
単純なわかりやすい話です。


最終的に何でも変化して壊れるものだから(四聖諦のうちの一番目の真理、苦聖諦に相当)、
その変化する性質のものに執着して実際に変化を目の当りにすると苦しみが生じる。(四聖諦のうちの二番目の真理、集聖諦、苦しみが起こる原因に相当)、


しかしながら
「ものは変化して壊れるものである。」とあらかじめ分かっている人にとっては、自分のもの、所有物であっても、それが変化して、壊れても 悲しみは生じない(四聖諦のうちの三番目の真理、滅聖諦に相当)ということですね。


実に単純な話です。 (愛着物が変化しても、悲しまなくなる方法、技術論が四聖諦のうちの四番目の真理、道諦、八正道)


このゴータマ・ブッダの実にわかりやすい、単純な説法の仕方、表現、順序、フレーズを読むか、音読するかをしますと、「なぜ自分が苦しむのか?」という単純な原因の理由がすぐ分かり、脳にとても整理されて残りやすいと思います。


おそらく人間の脳裏に残りやすいように、人に説法するのが一番上手いという徳を持つブッダならではのシンプルな言葉の工夫があると推測されます。


普通の人間に「難しいことを長時間ズラズラと喋ったところで、要点が頭に入るわけがない」という達観した説法する際の知恵がおありなのではないか?と個人的には感じます。


PART 2へ続きます。

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