インド最初期仏教への誘い

現存するパーリ語仏教経典からの引用による仏教紹介。

なぜブッダにとって貨幣、五欲は不浄なのか?part②[次第説法21 布施⑧ 欲の欠点、危難②]


前回の補足です。


在世当時の釈尊は「いかなる理由でも自分は現金は受け取らない」という証言がある経典のご紹介 Part 2[次第説法19 布施⑥] - インド最初期仏教への誘い
釈尊曰く
「聚落主よ、金銀の浄なるものには五種の欲も亦淨なり。」
「村長さんよ、金銀貨幣が浄ならば(清らかならば)、五種の欲(眼耳鼻舌身からの欲、刺激)もまた浄(清らか)ですよ。」


「五種の欲の浄なるものは聚落主よ、これを非沙門法の〔人〕、
非釈子〔法の人〕と見做すべき。」

五つの感覚器官(眼耳鼻舌身)から得られる欲(刺激)を清らかなものとする(楽しむ)者は、村長さんよ、この人は修行者ではなく、仏弟子ではないとみなすべきですよ。


なぜ釈尊は、五種の欲(眼耳鼻舌身からの欲、刺激)を止めるように修行僧らに薦めるのか?
五種の欲(眼耳鼻舌身からの欲、刺激)を楽しむものは、修行者ではなく、仏弟子でもないと断言するのか?


その理由の一例を経典から、ご紹介したいと思います。
(中部経典3 第59 多受経 片山一良訳 P158から引用 大蔵出版)
釈尊曰く
アーナンダよ、つぎのような五種の妙欲があります。五とは何か。


によって識られる、好ましい、楽しい、喜ばしい、愛しい、欲をともなった
魅力的な もろもろのです。
によって識られる、好ましい、楽しい、喜ばしい、愛しい、欲をともなった
魅力的な、もろもろのです。
によって識られる、好ましい、楽しい、喜ばしい、愛しい、欲をともなった
魅力的な、もろもろのりです。
によって識られる、好ましい、楽しい、喜ばしい、愛しい、欲をともなった
魅力的な、 もろもろのです。
によって識られる、好ましい、楽しい、喜ばしい、愛しい、欲をともなった
魅力的な もろもろの触れられるものです。


これらが五種の妙欲です。


アーナンダよ、これら五種の妙欲によって生じる楽と喜は欲楽と言われます。
アーナンダよ、 『生けるものたちは、 ​こ​れが最上であるとして、楽と喜を感受する』と
いうように語る者がいれば、


私はかれにこれを認めません。


それはなぜか。
アーナンダよ、この楽よりさらに優れ、さらに勝った他の楽があるからです。
れでは、アーナンダよ、この楽よりさらに優れ、さらに勝った他の楽とは何か。


アーナンダよ、ここに比丘は、もろもろの欲を確かに離れ、もろもろの不善の法
を離れ、大まかな考察のある、 細かな考察のある、遠離から生じた喜びと楽のあ
る、第一の禅に達して住みます。 アーナンダよ、これが、その楽よりさらに優れ、
さらに勝った他の楽です。~


さらに経典では第一禅定よりもっと「楽な境地があることが述べられています。


つまり釈尊在世当時のインドで世間の貨幣財産、家族恋愛関係等すべて捨てて出家比丘になったならば、以前一般人であった頃よりも「幸福感」に浸れていなければ、意味がないわけです。
そのことを釈尊は言われていると思います。


ただし出家者になっても、世間の、自分の身体の五つの感覚器官から得られる欲、刺激から離れなければ
その上の段階の楽には入れないところが最大のポイントだと思われます。


だからそのための注意事項として釈尊は、「貨幣金銀から離れろ、五つの感覚器官からの欲から離れろ」とおしゃっておられると思いますね。


世俗の一般的な心身の苦しみから離れるのには、最低限五つの感覚器官からの欲を捨て去る必要があるという事ですね。


だからと言って、いわゆる禅定が究極的な「楽」になるのか?と言うとそれも違うとゴータマ・ブッダは注意してるわけです。


禅定、心の集中もまたいづれ壊れますよ、無常ですよ、完全ではないから、その禅定への欲も捨てるべきとゴータマ・ブッダはそう語られていますね。


いづれご紹介したいと思っていますが、中部経典第13 大苦蘊経 P248 片山一良訳 あるいは相応部経典 蘊相応 アッサジ経 P429 大蔵出版に書かれています。


結論としまして、修行者になって、出家までして僧侶になったのに、一般人と同じ精神状態の暮らしをするのなら、仏教の目指す境地の足元にも及ばないし、全く意味がない、という事になると思われます。


せっかく修行者、修行僧になった者に対する、釈尊の憐み、思いやりのアドバイスだと思われます。


されど聚落主よ余は是の如く言ふ、


『草は草を要するものによりて求めらるべく、
薪は薪を要するものによりて求めらるべく、
車は車を要するものによりて求めらるべく、
人は人を要するものによりて求めらるべし。


そうではあるが、村長さんよ、私はこのように言います、


草は草を必要とする者によって求められるべきだし
薪(まき)は薪を必要とする者によって求められるべきだし
車は車を必要とする者によって求められるべきだし
人は人を必要とする者によって求められるべきです。


聚落主よ、如何なる事由によりても余は金銀を受くべし求むべし』と言はず」と。


村長さんよ、どんな理由によってでも、私は金銀貨幣を受けるべき
、求めるべきであると言いません。』と。


修行者、仏弟子は真の精神的自由、幸福を求めるならば、五つの感覚器官から得られる欲、刺激は要らないのでしょうね。見事なゴータマ・ブッダの詩偈だと思われます。

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