インド最初期仏教への誘い

現存するパーリ語仏教経典からの引用による仏教紹介。

なぜブッダにとって貨幣、五欲は不浄なのか?PART①[次第説法20 布施⑦ 欲の欠点、危難①]


↑ この続きのまとめです。今回は
前回、釈尊がこのパーリ語経典の中でおっしゃられた
聚落主よ、金銀の浄なるものには五種の欲も亦淨なり。」
「村長さんよ、金銀貨幣が浄ならば(清らかならば)、五種の欲(眼耳鼻舌身からの欲、刺激)もまた浄(清らか)ですよ。
の意味の僕個人の感想です。


ここで言っているのは、金銀貨幣は仏弟子にとっては必要がないものですよ、ということだと思います。


要は金銀貨幣を使うということは、俗世間、一般人と同じ生活をするということなのですね。


なので、わざわざ、今までの一般人の在家生活、財産、家族、貨幣すべてを捨てて、出家生活に入ったのだから、今さらまた、人と物等を売り買い、貨幣を使って娯楽を楽しむような在家生活をするならば、出家した意味がないということだと思います。


出家生活に必要な生活出需品等(衣服、食料、住、薬)は基本的に「現物支給=托鉢、布施、時に衣は墓場で捨てられた布を使用等」でなされるので、それ以上の物は必要ないものと思われます。


要は、出家生活には「金銀貨幣は不浄で、五種の欲(眼耳鼻舌身からの欲、刺激)もまた不浄、汚れていますよ。」
というのがパーリ語仏教経典に出て来られる、ゴータマ・ブッダ、釈尊の主張だと思われます。


では何故こういう主張がなされるのでしょうか?
元々何故仏教が始まったのか?起こったのか?ということがその起源になると思われます。


長部経典、中部経典(聖求経)などに出て来る話では、何不自由のない暮らしの中で解決出来ない問題が出て来てしまったと表記がありますね。
それは、生まれて来たものは、例外なく
老い、病気になり、死んでしまう (いわゆる四門出遊。)
という避けられない問題ですね。
その他、悩み事、悲しむことが出て来てしまう。


その解決方法として、当時のインドで釈尊は出家として修行者の存在を選択したということだと思います。


当時のインドでは、どうも若い時から社会生活をして家族を養い、家督を息子達に譲り、老齢になってから出家するというのが一般的であるらしく、釈尊のような若い者の出家はなく、父親か母親が泣き崩れたとあります。


莫大な金銀、財産、妻子、国王の地位を捨てての出家修行者としての人生の選択をされたということのようですね。


生活に困っての出家生活の選択では無かったということですね。パーリ語経典の中の話ではそうなっています。


つまり僕がパーリ語仏教経典を見る限り、パーリ語で遺された仏教とは、


我々が普通に暮らす一般生活、在家生活を送るに当たり、生まれてから死ぬまで当たり前に経験する悩み苦しみの一切の解決方法を指し示しているわけです。


それもその解決方法普通の頭の持ち主で、普通の常識の範囲内の考えで、当たり前に理解できる方法で示されている訳です。


普通に我々一般人が金銀貨幣を使って五種の欲(眼耳鼻舌身からの欲、刺激)で生きている。

それでその結果、自動的に遅かれ早かれ、老い、病、精神的な悩み、苦しみ、悲しみ、最後は死を、一般人は誰でも経験しているわけです。


だとしたらその悩み苦しみの解決方法として、在家一般人と同じような姿勢「五種の欲(眼耳鼻舌身からの欲、刺激)」で暮らしたとしても、
悩み苦しみ悲しみはその人から消えないと思いますね。当たり前の予測ですが。


人間がその普通の生活をして自動的に生まれてしまった悩み苦しみ悲しみを乗り越えるために、
五種の欲(眼耳鼻舌身からの欲、刺激)の調伏、抑制、乗り越え方法をゴータマ・ブッダはご自分の教え(当時は口伝)で指し示している訳です。


次回は、普通我々が五種の欲(眼耳鼻舌身からの欲、刺激)で生きていて、そこで自動的に、必然的に生まれてしまった悩み苦しみ悲しみの原因、いわゆる欲の欠点、危難その解決方法を、相応部経典 蘊相応、大念処経 四聖諦の苦諦から引用しまして感想を述べてみたいと思います。

×

非ログインユーザーとして返信する