インド最初期仏教への誘い

現存するパーリ語仏教経典からの引用による仏教紹介。

在世当時の釈尊は「いかなる理由でも自分は現金は受け取らない」という証言がある経典のご紹介 Part 2[次第説法19 布施⑥]


この続き、part 2です。


南伝大蔵経第16 巻上 相応部経典五 立花俊道訳 P29からの引用


「げにも聚落主よ、是の如く説く汝は余の所談を談ずるものにして非実を以て余を誹謗することなし。余の法に随順して法を説明し、誰なる随順説の同法者も非難さるべき地位に陥ることなし。
「いかにも村長さんよ、このように問われ、このように答えているそなたは、私が説いていることを語る者です。また、私を不実によって誹謗していません。


また、法について法のとおりを説明しています。
また如法(根拠のある)の種々の言論も非難されるべき状態に到ることがありません。


聚落主よ、これ沙門釈子等には金銀は浄に非ず、彼等はこれを受けず、彼等はこれを取らず。
村長さんよ。これ仏弟子達には金銀貨幣は浄では無いし、彼らはこれを受け取りません。


沙門釈子等は摩尼黄金を棄て、金銀を離れたればなり。


仏弟子達は(既に)マニ黄金を捨てて、金銀を離れたからです。


聚落主よ、金銀の浄なるものには五種の欲も亦淨なり


村長さんよ、金銀貨幣が浄ならば(清らかならば)、五種の欲(眼耳鼻舌身からの欲、刺激)もまた浄(清らか)ですよ。


眼耳鼻舌身の感覚器官から受ける刺激、つまり色(眼に映る映像)、声(音)、香(匂い)、味(味覚)、触(触れられる対象物、感触)を楽しむことも浄、清らかな事になるという意味。(僕個人の注釈)


五種の欲の浄なるものは聚落主よ、これを非沙門法の〔人〕、
非釈子〔法の人〕と見做すべき。


五つの感覚器官(眼耳鼻舌身)から得られる欲(刺激)を清らかなものとする(楽しむ)者は、村長さんよ、
この人は修行者ではなく、
仏弟子ではないとみなすべきですよ。


されど聚落主よ余は是の如く言ふ、


『草は草を要するものによりて求めらるべく、
薪は薪を要するものによりて求めらるべく、
車は車を要するものによりて求めらるべく、
人は人を要するものによりて求めらるべし。


そうではあるが、村長さんよ、私はこのように言います、


草は草を必要とする者によって求められるべきだし
薪(まき)は薪を必要とする者によって求められるべきだし
車は車を必要とする者によって求められるべきだし
人は人を必要とする者によって求められるべきです。


聚落主よ、如何なる事由によりても余は金銀を受くべし求むべし』と言はず」と。


村長さんよ、どんな理由によってでも、私は金銀貨幣を受けるべき
、求めるべきであると言いません。』と。」


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次回は「村長さんよ、金銀貨幣が浄ならば(清らかならば)、五種の欲(眼耳鼻舌身からの欲、刺激)もまた浄(清らか)ですよ。


五つの感覚器官(眼耳鼻舌身)から得られる欲(刺激)を清らかなものとする(楽しむ)者は、村長さんよ、この人は修行者ではなく、仏弟子ではないとみなすべきですよ。」
のところが分かりにくいと思いますのでその辺りの感想を述べてみたいと思います。
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全訳
「いかにも村長さんよ、このように問われ、このように答えているそなたは、私が説いていることを語る者です。また、私を不実によって誹謗していません。


また、法について法のとおりを説明しています。
また如法(根拠のある)の種々の言論も非難されるべき状態に到ることがありません。


村長さんよ。これ仏弟子達には金銀貨幣は浄では無いし、彼らはこれを受け取りません。


仏弟子達は(既に)マニ黄金を捨てて、金銀を離れたからです。
村長さんよ、金銀貨幣が浄ならば(清らかならば)、五種の欲(眼耳鼻舌身からの欲、刺激)もまた浄(清らか)ですよ。


五つの感覚器官(眼耳鼻舌身)から得られる欲(刺激)を清らかなものとする(楽しむ)者は、村長さんよ、
この人は修行者ではなく、
仏弟子ではないとみなすべきですよ。


そうではあるが、村長さんよ、私はこのように言います、


草は草を必要とする者によって求められるべきだし
薪(まき)は薪を必要とする者によって求められるべきだし
車は車を必要とする者によって求められるべきだし
人は人を必要とする者によって求められるべきです。


村長さんよ、どんな理由によってでも、私は金銀貨幣を受けるべき
、求めるべきであると言いません。』と。」


全訳
「げにも聚落主よ、是の如く説く汝は余の所談を談ずるものにして非実を以て余を誹謗することなし。
余の法に随順して法を説明し、誰なる随順説の同法者も非難さるべき地位に陥ることなし。


聚落主よ、これ沙門釈子等には金銀は浄に非ず、彼等はこれを受けず、彼等はこれを取らず。
沙門釈子等は摩尼黄金を棄て、金銀を離れたればなり。


聚落主よ、金銀の浄なるものには五種の欲も亦淨なり。


五種の欲の浄なるものは聚落主よ、これを非沙門法の〔人〕、
非釈子〔法の人〕と見做すべき。


されど楽落主よ余は是の如く言ふ、


『草は草を要するものによりて求めらるべく、
薪は薪を要するものによりて求めらるべく、
車は車を要するものによりて求めらるべく、
人は人を要するものによりて求めらるべし。


聚落主よ、如何なる事由によりても余は金銀を受くべし求むべし」と言はず」と。

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