インド最初期仏教への誘い

現存するパーリ語仏教経典からの引用による仏教紹介。

ブッダ自ら説く、ご自分の過去世について。[次第説法23 布施の話⑩ 天界の話②]


続きです。
ゴータマ・ブッダ自ら、ご自分の過去世について語られています。
如是語経 原始仏典八 ブッダの詩 p215からの引用 長崎法潤 渡辺顕信 訳 講談社


 二つの利得


たしかに次のことを世尊が説かれた、尊むべきお方が説かれた、と私は聞いている。


「比丘たち、功徳を恐れてはならない。比丘たち、功徳は安楽の同義語であり、人の願うものの、欲するものの、愛するものの、快いものの同義語である。


すなわち、比丘たち、長い間にわたって功徳を積めば、長い間にわたって願わしい、欲する、愛する、快いその果報を受けることを、私は知っている。


私は七年間いつくしみの心を修練したのち、その果報により世界の七度びまで崩壊と生成を繰り返す間は、二度とこの世に戻ってくることがなかった。


比丘たち、私は世界が崩壊している間は、実に光音天(註)にいたのである。また世界が生成している間は、まだ住する天神もない空虚な梵天宮に生まれていたのである。


比丘たち、実にそこにおける私は、梵天であり、大梵天(註)であり、征服者であり、征服されることのない者であり、すべてを見る者であり、最高の権威を持つ者であった。


そして、比丘たち、私は三十六回も、諸天の帝王である帝釈天(註)であった。


私は数百回も、正義に従う正義の王であり、統治下の国々をよく治めていた。七種の宝を持つ転輪聖王(註)であり、地方の小王国に威光を及ぼしたことは、いうまでもない。

比丘たち、それについて私に次のような思いが生じた。『私がいまこのように大神力があり、大威力があるのは、私のいかなる行いの結果であるのか。 いかなる行いの果報であるのか』と


比丘たち、それについて私に次のような思いが生じた。『私がいまこのように大神力があるのは、私の三つの行いの結果である。三つの行いの果報である。すなわち施しと調御と自制(註)との結果である』と」


このことを世尊は語られ、それについて次のように説かれた。


彼は未来の安楽のもとになる功徳を学ぶべきである。


施しと、平静なふるまいと、いつくしみの心と を修練すべきである。


安楽を生ずるもととなるこれら三つのことを修練して、賢い人は、憎悪の思いがない安楽な世界に生まれる。


このことをも世尊がまた説かれた、と私は聞いている。


注釈


光音天
極光浄、遍勝光とも訳す。
光をことば(音声)とするものの意。 色界第二禅の第三天、またはそこに住する神。


仏教の世界観によれば、生あるものが輪廻転生する迷いの領域を欲界、色界、無色界の三つの世界に分ける。


欲界とは、姪欲、貪欲の二欲をもつものが住し、欲の盛んな、最も下にある世界で、そこには地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天の生存状態 (六趣または六道)がある。


欲界の天は、①四天王、②トウ 利天・三十三天、③夜摩天、④兜率天、⑤化楽天、⑥他化自在天の六つのグループに分けられ、六欲天といわれる。


 色界は欲界の上にあり、二欲を離れたものの住む領域で、ここは絶妙な物質からできている。 色界の天は初禅天、第二禅天、第三禅天、第四禅天のグループに分けられる。


 光音天は第二禅天 (①少光天、② 無量光天③光音天)の第三天。


無色界は色界の上にある領域で、物質を超えて精神のみのある世界。 


無色界の天は四種に分けられる。空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処。


天界の最高所を無色界といい、それを四階層に分けてこう呼ぶ。


空無辺処は物質性を離れ、空間の無限自在性を知る境地。 
識無辺処は心のはたらきの無限性を知る境地。 
無所有処は何ものもないという静けさに沈潜する境地。 
非想非非想処は有・無を離れた平等安静な境地で、およそ生存の最高所である。


大梵天 (註)
色界の初禅天 (①梵衆天、②梵輔天、③大梵天)の第三天、またはそこに住する神。


梵天宮は大梵天の住む宮殿。


帝釈天(註)
もとヴェーダの神話に由来する神であるが仏教内では、「梵天」とともに、仏法を守護する有力な天神と見なされている。


転輪聖王(註)
武力を用いず、正義をもって全世界を統治する理想の王者。 とくに仏教では、仏の三十二の特相をそなえ、七種の宝(輪、象、馬、珠、女、すぐれた大臣、すぐれた将軍)をもち、正義をもって支配する王者であると言われている。


施しと調御と自制(註) 片山一良訳


施物の喜捨
自己の調御によって行われた布薩の儀式。

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