インド最初期仏教への誘い

現存するパーリ語仏教経典からの引用による仏教紹介。

ゴータマ・ブッダが説く「色(物質、容姿)の危難とは何か?②」四聖諦を理解するために。「苦Dukkhaドゥッカ」の意味とは?大苦蘊経 PART12[次第説法45 色(物質、容姿)の危難]


↑ 前回の続きです。


今回も、「色(物質、容姿)の危難②」についてです。


パーリ語仏典 中部経典第13 大苦蘊経(mahaa dukkha khanda sutta) 片山一良訳 大蔵出版 P24~から引用


「また、比丘たちよ、その同じ女性が死体で墓場に捨てられ、死後一日、あるいは死後二日、あるいは死後三日経ち、膨張し、青黒くなり、膿みただれているのを見たとします。
比丘たちよ、そのことをどう思いますか。 以前の美しさと輝きは消え、
危難が現われているのではありませんか」


「おっしゃるとおりです、尊師よ」


「比丘たちよ、これも、もろもろの色の危難です。


また、比丘たちよ、その同じ女性が死体で墓場に捨てられ、


鳥に食べられたり、鷹に食べられたり、禿鷹に食べられたり、蒼鷺に食べられたり、犬に食べられたり、虎に食べられたり、豹に食べられたり、ジャッカルに食べられたり、あるいは種々の生き物に食べられているのを見たとします。


比丘たちよ、そのことをどう思いますか。 以前の美しさと輝きは消え、危難が現われているのではありませんか」


「おっしゃるとおりです、 尊師よ」


「比丘たちよ、これも、もろもろの色の危難です。


また、比丘たちよ、その同じ女性が死体で墓場に捨てられ、
骨が連鎖し、血肉があり、筋が繋がっているのを、
骨が連鎖し、肉がなく、血にまみれ、筋がつながっているのを、
骨が連鎖し、血肉がなく、筋が繋がっているのを、


骨が連鎖せず、四方八方に、
すなわち
手の骨は別方向に、
足の骨は別方向に、
踝(くるぶし)の骨は別方向に、
脛(すね)の骨は別方向に、
腿(たい)の骨は別方向に、
腰の骨は別方向に、
肋骨は別方向に、
背骨は別方向に、
肩の骨は別方向に、
頸(けい)骨は別方向に、
歯の骨は別方向に、
頭蓋骨は別方向に散乱しているのを見たとします。


比丘たちよ、そのことをどう思いますか。 以前の美しさと輝きは消え、危難が現われているのではありませんか」


「おっしゃるとおりです、 尊師よ」


「比丘たちよ、これも、もろもろの色の危難です。


また、比丘たちよ、その同じ女性が死体で墓場に捨てられ、
もろもろの骨が白い貝の色のようになっているのを、
もろもろの骨が山積みされ、一年経っているのを、
もろもろの骨が腐食し、粉々になっているのを見たとします。


比丘たちよ、
そのことをどう思いますか。 以前の美しさと輝きは消え、
危難が現われているのではありませんか」


「おっしゃるとおりです。 尊師よ」


「比丘たちよ、これも、もろもろの色の危難です。


また、比丘たちよ、その同じ女性が死体で墓場に捨てられ、
もろもろの骨が白い貝の色のようになっているのを、
もろもろの骨が山積みされ、一年経っているのを、
もろもろの骨が腐食し、粉々になっているのを見たとします。


比丘たちよ、
そのことをどう思いますか。 以前の美しさと輝きは消え、
危難が現われているのではありませんか」


「おっしゃるとおりです。 尊師よ」


「比丘たちよ、これも、もろもろの色の危難です」


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誰でも結局、死んで、火葬しなければ、そのまま大地で動物、虫などに食べられ、骨になる、その骨もバラバラになる、粉になる、大地に戻るという事ですね。


美しさを保っていた若かりし容姿端麗な者も、そうでない者も、これは運命、定めということ、その人の極めた栄華は必ず変化し、最後は崩壊する、無くなるという事のようです。


必ずこの我々が生きている現象世界では、何でも変化することは避けられないので、美しさ、幸福は、同時に一緒に必ず、醜さ、不幸を伴うものなのでしょうね。 絶えず幸と不幸はセットで付いているものという事のようです。


このことで思い出されるのが、ゴータマ・ブッダの臨終の際の最後の言葉(遺言)です。
パーリ経典 長部3 大般涅槃経 P313 ~ 片山一良訳 大蔵出版


そこで、世尊は比丘たちに告げて言われた。
「さあ、比丘たちよ、今やそなたたちに告げます。


”いかなるものも移ろい行きます。(諸行は壊れる性質のものです。)
vaya-dhammā sankhārā 


怠ることなく努めなさい appamādena sampādethaと。”
これが、如来の最後の言葉である。

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この世の中の基本は、「すべて物事は、変化している。」ということですね。


変化しているのならば、病気が治ったり、子供が成長したり、新たに好きな人と出会ったり等というそういう今までにはない良い?「変化」は人間にとって歓迎されるわけです。


しかしながら、その回復した身体が再び病んでしまう、成長した子供が自分から離れてしまう、好きな人がいなくなってしまうという「変化」もまた避けられないことになりますし、つまり歓迎されない?「変化」が次に「必ず」起こることになります。


要は、この世の中で幸福になっても、その幸福は次の瞬間から変化してしまうので、そのまま、つかんだ幸福が変わらないでいるという事は、あり得ないものと思われます。


むしろつかんだ幸せに、手を加えてさらなる幸福にしようと、猛烈に努力してみても、つかんだ幸福の変化、崩壊のスピードがはるかに速いので、結局最後には、つかんだ幸福が自分から去って行ってしまうことになると思われます(いわゆる愛着、執着対象の変化、劣化)。


あるいは、つかんだ幸せを十分味わう前に、味わう自分が先に崩壊してしまう(自分の心が変化してしまう、飽きてしまう、味わう前に自分が病気になる、老化し、死んでしまう)


ではどうすればいいのか?
色(物質、容姿)の危難について、ゴータマ・ブッダの対策案について、次回から見ていきたいと思います。

ゴータマ・ブッダが説く「色(物質、容姿)の危難とは何か?①」四聖諦を理解するために。「苦Dukkhaドゥッカ」の意味とは?大苦蘊経 PART11[次第説法44 色(物質、容姿)の危難]


↑ 前回の続きです。


今回は、「色(物質、容姿)の危難」についてです。


パーリ語仏典 中部経典第13 大苦蘊経(mahaa dukkha khanda sutta) 片山一良訳 大蔵出版 P243~から引用



色の危難


「つぎに、比丘たちよ、もろもろの色の危難とは何か。ここに比丘たちよ、


その同じ女性が後に年齢八十歲か、九十歲か、百歳かになり、年老い、垂木のように曲がり、撓(たわ)み、杖に縋(すが)り、ふるえ、憔悴(しょうすい)し、青春は去り、歯は欠け、髪は白くなり、薄くなり、頭は禿げ、皺(しわ)がより、肢体に斑点が現われているのを見たとします。


比丘たちよ、そのことをどう思いますか。 以前の美しさと輝きは消え、危難が現われているのではありませんか」


「おっしゃるとおりです、尊師よ」
「比丘たちよ、これが、
もろもろの色の危難です。


また、比丘たちよ、その同じ女性が病み、苦しみ、重症で、自分の大小便に沈み、臥したり、他の者たちに起こされたり、他の者たちに寝かされたりしているのを見たとします。


比丘たちよ、そのことをどう思いますか。 以前の美しさと輝きは消え、危難が現われているのではありませんか」


「おっしゃるとおりです。 尊師」


「比丘たちよ、これも、もろもろの色の危難です」


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確かにそれは、その通りで、有名俳優、女優、スポーツ選手、歌手等を見ても然りですね。
色(物質、容姿)の変化、劣化、老いは、たとえ美しく健康に生まれ、育って行っても最後には、誰も避けられません。

ゴータマ・ブッダが説く「色(物質、容姿)の楽味とは何か?」四聖諦を理解するために。「苦Dukkhaドゥッカ」の意味とは?大苦蘊経 PART10[次第説法43 色(物質、容姿)の楽味]


↑前回の続きです。
今までは↓

一方に坐ったポッカラサーティ・バラモンに、世尊は、順々の話[次第説法]をされた。


すなわち、布施の話、戒の話、天の話、もろもろの欲望における危難、卑劣・汚れを、離欲における功徳を説明された。


世尊は、ポッカラサーティ・バラモンが従順な心になり、柔和な心になり、障りのない心になり、向上する心になり、浄らかな心になったことをお知りになると


もろもろの仏が自ら称賛する法の教えをすなわち、


苦・集・滅・道 [苦 ・苦の生起・苦の滅尽・苦の滅尽にいたる行道という四聖諦]を説き示された。


すると、ちょうど染みのない清浄な布が完全に染料を受けとるように、
ポッカラサーティ・パラモンには、即座に、


「生じる性質のものはすべて滅する性質のものである」という、
塵を離れ垢を離れた法の眼✽1が生じた。 


さて、
法を見、法を得、法を知り、法を深く解し、疑いを渡り、疑惑を離れ、
師の教えにおいて、自信を得、他に依ることがない、ポッカラサーティ・バラモンは、世尊にこう申し上げた。〜


✽1 註釈書には預流道が意趣されるとの記載あり。


この中での、
『もろもろの欲望における危難、卑劣・汚れを、離欲における功徳を説明された。』


としましてパーリ語仏典 中部経典第13 大苦蘊経(mahaa dukkha khanda sutta)の中で、欲の楽味、欲の危難、欲の出離とは何か?をご紹介してきました。


今回から色(物質、容姿)の楽味、危難、出離とは何か?をご紹介していきたいと思います。)  片山一良訳 大蔵出版 P242~から引用


色の楽味
「つぎに、比丘たちよ、もろもろの色の楽味とは何か。
たとえば、比丘たちょ、王族の娘か、バラモンの娘か、資産家の娘がおり、年齢は十五歳(注)か十六歳で、高すぎず低すぎず、痩せすぎず、太りすぎず、黒すぎず、白すぎないとします。
比丘たちよ、その頃の彼女は、最も美しく輝いています」


「おっしゃるとおりです、尊師よ」


「比丘たちよ、その美しさと輝きによって生じる楽・喜これがもろもろの色の楽味です」


(注釈)
なぜ、この年齢が限定されたか。〈美しさの完成を示すためである。
苦しい家庭に生まれた女性でも、この時期には少しずつ美しく成長し、清まる。ただし、男性の場合は二十歳、二十五歳の時期に清まる〉。
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物質、容姿に関して言えば、確かにそれはそうでしょうと思われます。人の好みはそれぞれと思いますが。
次回は、色の危難について述べたいと思います。