インド最初期仏教への誘い

現存するパーリ語仏教経典からの引用による仏教紹介。

ゴータマ・ブッダが説く、欲を捨てるタイミング 中部経典14 小苦蘊経から PART② ゴータマ・ブッダ御自身の場合 番外編[禅定について]


前回の続きです。⇑


今回はゴータマ・ブッダその人ご自身の正定、禅定体験の告白です。
中部経典 第114  小苦蘊経 (Cūladukkhakkhandha-sutta) 片山一良訳 大蔵出版 中部① p251~



マハーナーマよ、私も覚る以前(成道以前)、まだ正しい覚りを得ていない菩薩であったとき、
〈もろもろの欲は、味が少なく、苦が多く、悩みが多いものであり、ここには危難ばかり多い〉とこのように如実に、正しく慧をもってよく見ていながら、


もろもろの欲を離れた、もろもろの不善の法を離れた喜・楽(第一禅定・第二禅定)を、あるいは他のそれより勝れたもの到達しなかったのです。


そこで、私は、もろもろの欲に誘惑されない者であるとけっして自称しませんでした。


しかし、マハーナーマよ、私は、〈もろもろの欲は、味が少なく、苦が多く、悩みが多いものであり、ここには危難ばかり多い〉とこのように如実に、正しく慧をもってよく見、


そして、もろもろの欲を離れた、もろもろの不善の法を離れた喜・楽(第一禅定・第二禅定)に、あるいは他のそれより勝れたもの到達したのです。


そこで、私は、もろもろの欲に誘惑されない者であると自称しました。~引用終わり
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ゴータマ・ブッダその人の自白部分ですが、やはり欲を捨てるには、欲より上の、その楽よりさらに優れ、さらに勝った他の楽(第一禅定・第二禅定など)(中部経典59 多受経・参照 中部経典3 P158~片山一良訳 大蔵出版)


ゴータマ・ブッダが説く、欲を捨てるタイミング 中部経典14 小苦蘊経から PART1 番外編[禅定について] - インド最初期仏教への誘い


に到達したことがないと捨てられないようです。それに到達していないと、眼耳鼻舌身の刺激による欲の誘惑に簡単に乗ってしまうという事のようです。


世間一般の事例を見ますとそれは、枚挙にいとまがない事でしょう。



比丘、金銀貨幣家族等を捨てた修行僧にとりまして、八正道の中でなぜ正定の教えがあるのか?四禅の記述があるのか?と言いますと


①それは単純に欲を捨てるため、せっかく在家の楽しみを捨て出家したのだから、その捨てた五欲より上のものがあることを知るため、現法楽住のため 


②しかしまたその禅定にも欠点があり、それを観察するためだと思われます。


禅定の欠点⇩
ゴータマ・ブッダが説く「感受(感覚)の危難(欠点)とは何か?」四聖諦を理解するために。「苦Dukkhaドゥッカ」の意味とは?大苦蘊経 PART15[次第説法48 感受(感覚)の危難(欠点)] - インド最初期仏教への誘い



(四聖諦、八正道、正定の原文と日本語訳は
→パーリ語 長部経典 大念処経の中にある四聖諦の部 参照。 


あるいはネット上ですと、光明寺経蔵 https://komyojikyozo.web.fc2.com/index.html
長部→大篇→22 大念処経→(6)法随観 四諦の部)



ゴータマ・ブッダによる金銀財宝家族を捨てた出家修行僧に対する正定の説明。⇩
(原始仏教11 第22 大念処経 四聖諦の部 中山書房仏書林 片山一良訳 p48~)


比丘、比丘尼用(出家修行僧用)の表現で、在家生活を楽しんでいる信者一般には、恐らく当時、四禅等は説かれていないと思われます。(チッタ居士?等一部を除く)


つぎに、比丘たちよ、苦の滅尽にいたる行道という聖なる真理とは何か。
この聖なる八支の道です。
すなわち、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定です。
~略
また、比丘たちよ、正定とは何か。


比丘たちよ、ここに比丘はもろもろの欲を確かに離れ、もろもろの不善の法を
離れ、大まかな考察のある、細かな考察のある、遠離から生じた喜びと楽のある、
第一の禅に達して住みます。


大まかな考察、細かな考察が消え、内心が清浄の心
の統一された、大まかな考察、細かな考察のない、心の安定より生じた喜びと楽
のある、第二の禅に達して住みます。


喜びをまた離れていることから、平静をそなえ、念をそなえ、正知をそなえて住み、楽を身体で感じ、 聖者たちが『平静をそなえ、念をそなえ、楽に住む』と語る、第三の禅に達して住みます。


楽を断ち、苦を断ち、以前にすでに喜びと憂いが消滅していることから、苦もなく楽もない、平静による念の清浄のある、第四の禅に達して住みます。


比丘たちよ、これが正定と言われます。
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次回は「しかしながら禅定は仏教の本質ではない」という相応部経典、アッサジ経について御紹介してみたいと思います。

ゴータマ・ブッダが説く、欲を捨てるタイミング 中部経典14 小苦蘊経から PART1 番外編[禅定について]

⇩今まで感受(感覚)の楽味(長所)、危難(欠点)、出離の事、いわゆる心の集中の先にある、人間の持つ眼耳鼻舌身の感覚器官を超えた「禅定」、その楽味(長所)、危難(欠点)、出離について述べて来ました。


ゴータマ・ブッダが説く「感受(感覚)の楽味とは何か?」四聖諦を理解するために。「苦Dukkhaドゥッカ」の意味とは?大苦蘊経 PART14[次第説法47 感受(感覚の楽味])の楽味] - インド最初期仏教への誘い
ゴータマ・ブッダが説く「感受(感覚)の危難(欠点)とは何か?」四聖諦を理解するために。「苦Dukkhaドゥッカ」の意味とは?大苦蘊経 PART15[次第説法48 感受(感覚)の危難(欠点)] - インド最初期仏教への誘い
ゴータマ・ブッダが説く「感受(感覚)の出離とは何か?」四聖諦を理解するために。「苦Dukkhaドゥッカ」の意味とは?大苦蘊経 PART16[次第説法49 感受(感覚)の出離] - インド最初期仏教への誘い


⇩そして八正道の中に出てきます、正定についても少し触れてきました。


(四聖諦、八正道、正定の原文と日本語訳は


→パーリ語 長部経典 大念処経の中にある四聖諦の部 参照。 


あるいはネット上ですと、光明寺経蔵 https://komyojikyozo.web.fc2.com/index.html 
長部→大篇→22 大念処経→(6)法随観 四諦の部)


ゴータマ・ブッダが説く「色(物質、容姿)の出離とは何か?」四聖諦を理解するために。「苦Dukkhaドゥッカ」の意味とは?大苦蘊経 PART13[次第説法46 色(物質、容姿)の出離] - インド最初期仏教への誘い


ではパーリ語仏教経典に至る所に出て来ます、いわゆる心の集中の先にある、人間の持つ眼耳鼻舌身の感覚器官を超えた心の集中、禅定の体験、必要性をゴータマ・ブッダご自身がどのように語っておられるのか?、その自白部分をご紹介してみたいと思います。



中部経典 第114  小苦蘊経 (Cūladukkhakkhandha-sutta) 片山一良訳 大蔵出版 中部① 
p249~

このように私は聞いた―
あるとき、世尊は、サッカ国のカピラヴァットゥに近い、ニグローダ僧院に住んでおられた。
さて、釈迦族のマハーナーマ(世尊の叔父の子)は、世尊がおられるところへ近づいて行った。 行って、世尊を敬礼拝し、一方に坐った。 一方に坐った釈迦族のマハーナーマは、世尊にこう言った。


「尊師よ、私は長い間、世尊がお説きになられた法を、つぎのように理解してまいりました。〈貪りは心の汚れである。怒りは心の汚れである。愚痴は心の汚れである〉と。


尊師よ、このように私は、世尊がお説きになられた法を
〈貪りは心の汚れである。 怒りは心の汚れである。 愚痴は心の汚れである〉と理解してまいりましたが、


私には、ときに、もろもろの貪りの法が心を終息させてとどまります。
また、もろもろの怒りの法が心を終息させてとどまります。
また、もろもろの愚痴の法が心を終息させてとどまります。


尊師よ、そのため私には、このような思いがございます。〈私には、いったいどのような法が内で断たれていないため、
ときに、もろもろの貪りの法が心を終息させてとどまり、
また、もろもろの怒りの法が心を終息させてとどまり、
また、もろもろの愚痴の法が心を終息させてとどまるのであろうか〉と」


(世尊曰く・引用者注)
「マハーナーマよ、そなたにはその法そのものが内で断たれていないために​、ときに、もろもろの貪りの法が心を終息させてとどまり、
また、もろもろの
怒りの​法が心を終息させてとどまり、
また、もろもろの
愚痴の法が心を終息させてとどまるのです。


なぜなら、マハーナーマよ、もしそなたにその法​が内で断たれているならば、
そなたは家に住んでいないし、もろもろの欲(kaama)を享受していないからです。


しかし、マハーナーマよ、そなたにはその法そのものが内で断たれていないために
そなたは家に住み、もろもろの欲を享受しているのです。


マハーナーマよ、聖なる弟子が、〈​もろもろの欲(kaama)は味が少なく、悩みが多いものであり、ここには危難だけが多い〉 とこのように如実に、正しく​慧をもってよく見ていながら、


もろもろの欲を離れた、もろもろの不善の法​を離れた​喜・楽(第一禅定と第二禅定)に、他のそれより勝れたものに到達しないならば、かれは、けっしてもろもろの欲に誘惑されない者ではありません。


しかし、マハーナーマよ、
​聖なる弟子が
〈もろもろの​欲は、味が少なく、 苦が多く、 悩みが多いもので​あり、ここには​危難ばかり多い〉 とこのように如実に、正しく​慧をもってよく見、


そし​てもろもろの欲を離れた、もろもろの不善の法を離れた喜​・楽(第一禅定と第二禅定)に、あるいは他のそれより勝れたものに到達するならば、かれこそ、もろもろの欲に誘惑されな​い者です。
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この世尊の叔父さんであるマハーナーマさんは、時々貪り、怒り、愚痴(妄想、とんでもない過ち等)が出るそうですが、


それに対してゴータマ・ブッダの解答は、‘’そもそもあなたが在家で一般人の生活をして、自分の眼耳鼻舌身意の感覚器官で、外の対象、色声香味触法を楽しんでいるのだから当然だし、そもそもその外の対象、色声香味触法を楽しんでいないなら、とっくに出家してますよ。‘’という解答でした。


それはそうだと思われます。


解答としまして、欲が悪いと分かっていてもそれよりもずっと良い、最低限の第一禅定と第二禅定に到達していないならば、欲に誘惑されてしまいますよ、という話ですね。


それはそうだと思われます。


八正道の正定でもあらゆるところでも、金銀財宝、恋人夫婦家族関係を捨てて出家して、その日限りの食べ物のみ貰う托鉢で生活している比丘、修行僧はたしなみ的に、第一禅定から第四禅定まで修めるべき的、そうでなければすべてを捨てて出家した意味がない等のお経が増支部経典ほか他にもたくさんあったと思われます。


つまり、人間が欲を捨てるためには、「眼耳鼻舌身」からの刺激の感覚の執着を捨てた第一禅定などを経験すべきという事だと思われます。また「眼耳鼻舌身」からの感覚よりも、もっと良いものがあるというその経験をしなければ、また欲を捨てられないという事だと思われます。


欲で生きる、眼耳鼻舌身の感覚器官で受ける刺激で生きることが人間のすべてで、人間が欲を捨てるという事は、それは人間である自分に「死ね。」と言われているようなものなので、実際問題大変な事だと思われます。本人にその五欲を捨てる勇気が果たしてあるか?どうか?という事のようです。


⇩この件に対しての別の、ゴータマ・ブッダの言葉。


中部経典59 多受経・参照 中部経典3 P158~片山一良訳 大蔵出版


(世尊曰く・引用者注)


アーナンダよ、つぎのような五種の妙欲があります。 五とは何か。


によって識られる、好ましい、楽しい、喜ばしい、愛しい、欲をともなった
魅力的なもろもろのです。


によって識られる、好ましい、楽しい、喜ばしい、愛しい、欲をともなった
魅力的なもろもろのです。


によって識られる、好ましい、楽しい、喜ばしい、愛しい、欲をともなった
魅力的な、もろもろのりです。


によって識られる、好ましい、楽しい、喜ばしい、愛しい、欲をともなった
魅力的な、もろもろのです。


によって識られる、好ましい、楽しい、喜ばしい、愛しい、欲をともなった
魅力的な、もろもろの触れられるものです。


アーナンダよ、これらが五種の妙欲です。


アーナンダよ、これら五種の妙欲によって生じる楽と喜は欲楽と言われます。


アーナンダよ、『生けるものたちは、これが最上であるとして、楽と喜を感受する』というように語る者がいれば、私はかれにこれを認めません。それはなぜか。


アーナンダよ、この楽よりさらに優れ、さらに勝った他の楽があるからです。


それでは、アーナンダよ、この楽よりさらに優れ、さらに勝った他の楽とは何か。


アーナンダよ、ここに比丘は、もろもろの欲を確かに離れ、もろもろの不善の法を離れ、
大まかな考察のある、細かな考察のある、 遠離から生じた喜びと楽のある第一の禅に達して住みます。


アーナンダよ、これが、その楽よりさらに優れ、さらに勝った他の楽です。


アーナンダよ、『生けるものたちは、これが最上であるとして、楽と喜を感受する』というように語る者がいれば、私はかれにこれを認めません。それはなぜか。


アーナンダよ、この楽よりさらに優れ、さらに勝った他の楽があるからです。


それでは、アーナンダよ、この楽よりさらに優れ、さらに勝った他の楽とは何か。


アーナンダよ、ここに比丘は、大まかな考察、細かな考察が消え、内心が清浄の、心の統一された、大まかな考察、細かな考察がない、 心の安定より生じた喜びと楽のあ
第二の禅に達して住みます。


アーナンダよ、これが、その楽よりさらに優れ、さらに勝った他の楽です。
~以下同様
~第三禅
~第四禅
 
~想受滅に続く 以下略。


次回はそのゴータマ・ブッダその人の禅定体験談に続きます。

ゴータマ・ブッダが説く「感受(感覚)の出離とは何か?」四聖諦を理解するために。「苦Dukkhaドゥッカ」の意味とは?大苦蘊経 PART16[次第説法49 感受(感覚)の出離]


⇑前回の続きです。今回は感受(感覚)の出離nissaran.aについてです。


パーリ語仏典 中部経典第13 大苦蘊経(mahaa dukkha khanda sutta) 片山一良訳 大蔵出版 P248~から引用


感受の出離


つぎに、比丘たちよ、もろもろの感受の出離とは何か。
比丘たちよ、


もろもろの感受に対する欲貪の調伏
⓶ 欲貪の捨断


これがもろもろの感受の出離です。


比丘たちよ、いかなる沙門であれ、バラモンであれ、このようにもろもろの感受の楽味を楽味として、 危難を危難として、出離を出離として如実に知らない限り、


かれらは自らもろもろの感受を知悉(ちしつ)するであろう〉とか、〈他をそのとおりに教誡するであろう〉とか、〈実践のとおりにもろもろの感受を知悉するであろうという〉、この道理は知られません。


しかし、比丘たちよ、いかなる沙門であれ、バラモンであれ、このようにもろもろの感受の楽味を楽味として、危難を危難として、出離を出離として如実に知るならば、
かれらは自らもろもろの感受を知悉するであろう〉とか、〈他をそのとおりに教誡するであろう〉とか、〈実践のとおりにもろもろの感受を知悉するであろう〉という、この道理が知られます」と。


このように世尊は言われた。
かれら比丘は喜び、世尊が説かれたことに歓喜した、と。

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ゴータマ・ブッダが説く「欲の出離、解放とは何か?」四聖諦を理解するために。「苦Dukkhaドゥッカ」の意味とは?大苦蘊経 PART9[次第説法42 欲の出離、解放] - インド最初期仏教への誘い


ゴータマ・ブッダが説く「色(物質、容姿)の出離とは何か?」四聖諦を理解するために。「苦Dukkhaドゥッカ」の意味とは?大苦蘊経 PART13[次第説法46 色(物質、容姿)の出離] - インド最初期仏教への誘い



⇑この今まで述べてきました結論と同様になるようです。


感受、感覚も変化するもの、無常であるもの、最終的に壊れるものであるが分かりましたら、
結論、その対策としまして
精神的に気持ちとして「それを捨てるしかない」という決断のようです。


結局このことが理解できましたら、四聖諦の理解につながると思われます。


いわゆるその人にとりまして「良いもの」は必ず例外なく「変化」してしまうわけです。=無常


良いものが変化してしまうのだから、嫌な気持ちになるわけですね。=苦


当然それには実体がない、固定したものがない事になると思われます。=無我


以上で
パーリ語仏典 中部経典第13 大苦蘊経(mahaa dukkha khanda sutta) 片山一良訳 大蔵出版からの引用は終わります。


仏教で言うところの、 欲、色、感受、それぞれのdukkhaドゥッカの定義、長所、欠点、その精神的克服法が述べられていると思います。



次回は感受の楽味の延長線上にある、心の集中力を修めた先にある禅定についてのゴータマ・ブッダご自身の体験談をご紹介してみたいと思います。