インド最初期仏教への誘い

現存するパーリ語仏教経典からの引用による仏教紹介。

ブッダが説く、慈しみの心の修練と天界への道[次第説法24 慈悲喜捨① 天界の話③]


↑ 一方に坐ったポッカラサーティ・バラモンに、世尊は、順々の話[次第説法]をされた。すなわち、布施の話、戒の話、天の話、もろもろの欲望における危難、卑劣・汚れを、離欲における功徳を説明された。


→苦・集・滅・道 [苦 ・苦の生起・苦の滅尽・苦の滅尽にいたる行道という四聖諦]を説き示された。


上記、次第説法のうち、天の話になります。天界が本当にあるのかどうか?は別としまして、このような記述がパーリ語仏教経典にはたくさんあります。


ゴータマ・ブッダが語る慈しみ、天界の話についての記述です。 如是語経 原始仏典八 ブッダの詩 p220からの引用 長崎法潤 渡辺顕信 訳 講談社


慈しみの心の修練


たしかに次のことを世尊が説かれた、尊むべきお方が説かれた、と私は聞いている。


「比丘たち、およそ来世において天上界に生まれる拠り所となるいかなる功徳ある行いであっても、
それらすべては、とらわれを離れて慈しみに満ちた心の十六分の一にも値しない。


このとらわれを離れて慈しみに満ちた心は、それらをしのいで光り、輝き、また照り映えている。


たとえば、比丘たち、およそいかなる星の光であっても、それらすべては月の光の十六分の一にも値しない。
 月の光はそれらをしのいで光り、輝き、照り映えている。


まさしくこのように、比丘たち、およそ来世において天上界に生まれるよりどころとなるいかなる功徳であっても、それらすべては、とらわれを離れて慈しみに満ちた心の十六分の一にも値しない。


このとらわれを離れて慈しみに満ちた心は、それらをしのいで光り、輝き、また照り映えている。


たとえば、比丘たち、雨季の最後の一月(ひとつき)には、雲ひとつない晴朗な秋空に太陽が昇ると、太陽は空中にあるすべての輝くものや、闇の中にあるすべてのものをしのいで光り、輝き、また照り映えている。


まさしくそのように、比丘たち、およそ来世において天上界に生まれるよりどころとなるいかなる功徳であっても、それらすべては、とらわれを離れて慈しみに満ちた心の十六分の一にも値しない。


たとえば、比丘たち 夜の明け方に暁の明星は光り、輝き、照り映えている。


まさしくそのように、比丘たち、およそ来世において天上界に生まれるよりどころとなるいかなる功徳ある行いであっても、それらすべては、とらわれを離れて慈しみに満ちた心の十六分の一にも値しない。


このとらわれを離れて慈しみに満ちた心は、それらをしのいで光り、輝き、また照り映えている」

このことを世尊は語られ、それについて次のように説かれた。


心にゆるみなく、無限に慈しみの思いを修め、来世へのよりどころの消滅を見る人には、迷いの生涯への束縛が少ない。


もし人が、ただひとつの生命にも、憎悪する心なく慈しむなら、彼はそれにより善人である。

すべての生命 に憐愍(れんびん)の心をもった聖なる者は、多くの功徳を造りなす。


生あるものの満ちている土地を征服して、 馬の供儀や人の供犠 サンマパーサ祭やヴァージャぺィヤ祭、ニラッガラ祭(註)などの祭祀をしつつ巡歴する聖者のような王たちは、
よく修練されたい慈しみ溢れる心をもつ人の受ける功徳の十六分の一をも享受しない。


 すべての星の集まりが、 月の光の十六分の一にも及ばぬように。


殺さず殺させず、征服せず、征服させず、生命あるものすべてに対し、慈しみをいだく人には、いかなる者もうらみがない。


このことをもまた世尊が説かれた、と私は聞いている。


(註)  馬の供儀や人の供犠 サンマパーサ祭やヴァージャぺィヤ祭、ニラッガラ祭
ヴェーダの祭式。
そのうち最も大がかりで有名なのは、国王が祭主となって行う馬の供犠で、勝利を得た国王が王権を示すために行う祭。

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