インド最初期仏教への誘い

現存するパーリ語仏教経典からの引用による仏教紹介。

在家仏教の研究 浪花宣明③ 在家者に次第説法をする訳 次第説法6[次第説法 概要その⑥]




↑前回の続きです。


(在家仏教の研究 浪花宣明 P9から引用)



出家者は涅槃という高速な理想に目醒め、涅槃の獲得のために現世の一切の欲楽を捨て去った者である。


これに対して在家者はそのような高遠な理想に目醒めていない。


彼らは善事をなせば生天の楽果を得、 悪事をなせば悪趣に堕すという業報の思想の中で生活し、
伝統的に天の存在を信じ、死後は天界に生れることを生(ひっせい)の願いとしていた。


このような在家者に初めから解脱・涅槃のための教説を説き聞かせても、それは彼らの理解を越え、彼らには受け入れがたいものであろう。


仏陀はその時代の民衆の天界への憧れを巧みに利用して、彼らを仏道に入らしめた。


生天の教えによって仏道に入った彼らに、仏陀は説法を重ね、彼らを宗教的に目醒しめたのであろう。


現に原始経典の中では布施・戒・生天の三論の教説を聞き、 正法を理解し、受け入れることができるようになった者に対して、更に四諦の教説が説かれている。


たとえば『増支部経典』 八の一二 (A.IV.186) では、
世尊はジャイナ教徒であった師子将軍のために三論から始まる次第説法をしている。


即ち世尊は、施論、戒論、生天論、諸欲の過患、邪害、雑染、出離の功徳を説くが、


それを聞いた師子将軍に堪任心、柔軟心、離障心、歓喜心、明浄心が生じた。


堪任心乃至明浄心が生じ、 正法を受け入れるようになった彼に、世尊は 諸仏の称揚する説法を説いた。


それは苦・集・滅・道の四諦の教説✽1 であった。


四諦の教説を聞いて師子将軍は 即座に、


「集なるものは悉く皆滅法である」

という遠塵離垢の法眼を得た。✽2


彼は


「すでに法を見、法を得、法を知り、法に悟入し、疑惑を越え、疑いを除き、無畏を得、 師の教えを措いて他に縁るべきものはない」


と知って、


在家信者となる。この三論に始まり四諦の教説にまで高められる次第説法は原始経典の中で一つの定型として定着し、しばしばくり返されている。


このような見方で在家道を見てくると、 在家道に生天の楽果が説かれるのは、人を仏道に入らしめ、修行にはげましめるための方便であると見ることができる。


それ故、在家者によっては生天論が全く説かれないこともあるのである。


原始経典には、信・戒・聞・施・慧という実践道が在家者に説かれている。


これには最後に慧が説かれ、 在家者もまた最後には「如実智見」にまで到達すべきことが説かれている。



✽1 [苦 ・苦の生起・苦の滅尽・苦の滅尽にいたる行道という四聖諦]



✽2「生じる性質のものはすべて滅する性質のものである」ということ。

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